序文

本書を書こうとしたのにいくつかのきっかけがあった。まず、琵琶文化に関する研究は日本においてさえほとんどないということである。千年以上にもわたり、日本の音楽文化をさまざまな形で豊かにしてきたこの楽器についての総合的な研究論文はほとんどない。しかし22曲を収めた本書もけっしてこうした不備を補うものではなく、包括的であるとは言いがたい。というのは、実際に演奏することを考慮し焦点を絞って選曲したためである。
私は、1983年に音楽学者として琵琶文化、とりわけ筑前琵琶を研究するために来日した。今日では二人の「人間国宝」を生んだ筑前琵琶ではあるが、その全体像を把握するにはあまりにも研究がなされていないことに気づいた。そのうち、この音楽への最も賢明なアプローチは、基本から始めることであると確信するに至った。つまりこの音楽にじかに触れ、実践的に取り組んで、筑前琵琶奏者になろうと決意したのである。そして、筑前琵琶日本橘会(以下橘会と略す)の山崎旭萃師に入門した。

琵琶曲の詞章や歌唱、楽器の研究、そして師匠から弟子への伝授の方法および日本社会における稽古のあり方を深く掘り下げて初めて、この芸術の歴史や実践、およびこの芸術が日本人にどのように受け入れられたかを理解できるだろうと思えた。そうすることによって琵琶文化を内側から見ることができ、日本の音楽史研究の基礎として役立つと思ったのである。
私の実践の根本は何といっても詞章の意味を理解することであった。歌ったり語ったりする内容を正確に知らなければ、この芸術に取り組む意味はない。しかし詞章は文語体で書かれているので、現代日本語の語彙や表現とかけ離れているものが多い。つまり今の時代を生きる日本人にとっても難しいのである。そのため、琵琶の稽古を始めてすぐに徹底的に詞章を研究し始めた。その成果が本書の核となっている。技術が上達した段階で、国内だけでなく国外でも演奏活動を始めた。そのなかで、詞章を翻訳することが自分自身のためだけではなく、国外にこの芸術を広めるためにも不可欠であることに気づいた。日本人以外の聞き手に音楽的になじみのない語り芸術への関心を高めてもらうことは、信頼できる詞章の翻訳があって初めて可能である。それゆえ、本書は日本の主要な音楽ジャンルの一つである琵琶が、海外からの評価を得るための重要な手がかりともなりうると確信する。しかも、収録された22曲についての言語的、歴史的、音楽的な分析は日本国内の橘会の会員にはもちろん、琵琶に関心を持つすべての人にとっても役立つものと思われる。というのは、日本の琵琶の師匠が稽古で教えるのは、演奏上の実践的な側面だけであり、音楽の形式や構成、詞章の背景を教えることはまずないからである。橘会の家元の令嬢である橘旭帝師(現橘会副会長)がこの企画を非常に歓迎したのはこうした理由によるのである。

橘会の演目は全84曲を数えるが、本書で紹介するのはそのうちのわずか四分の一である。選曲の基準は以下の通りである。まず、私がこの38年間に学び、実際に舞台で演奏したものに絞った。さらに、現代の演奏者が演奏することができる曲を選んだ。実際、84曲のなかには現在ほとんど演奏されなくなってしまったものもある。しかしながら、今日、多くの人が学び演奏する曲をすべて選んだわけではない。私にとって重要なのは、内容と様式について、できる限り多くの種類を採録することであった。
本書の冒頭の曲『安達ヶ原』は平安時代の物語であり、最後の『西郷隆盛』は明治初期の英雄譚である。つまり平安時代から明治時代に至る主要な時代ごとに少なくとも一つは採ってある。筑前琵琶の作曲者は作品を娯楽のためだけに作ったのではなく、教育的な意味も持たせようとした。明治時代というのは西洋からの事物が称揚され、日本的な価値に対する評価が下がった時代だったが、筑前琵琶の創始者たちは同時代を生きる人々に日本の歴史を知ることの大切さを再認識させようと意図したである。

私の選曲において重視したのは曲の内容の歴史的側面であるが、様式という観点もなおざりにはしていない。様式についていえば、すべての曲は同じような構成を持っている。すなわち器楽による合いの手と声楽による旋律の定型は基本的に変わることなく、このジャンルを表す特徴となっている。しかし、『都落ち』のように歌唱に重点を置いたものもあれば、『安宅』のように明らかに「語り」に重点を置いたものもある。ほとんどの曲は橘会を創設した初代橘旭宗が作曲したものであるが、わずかに我が師山崎旭萃の作曲もある。
山崎師の作曲にはいろいろな特徴がある。「人間国宝」であった山崎師は卓越した演奏者であったため、特に弾奏において、高度な技術が要求される名人芸的要素を強調した作品を生み出し、新しい演奏技法を開発しさえしている。また、歌唱部分の作りにおいても、師匠であり助言者でもあった橘旭宗の作品とは様式的に異なる要素が多く見られる。
84曲のなかから22曲を選ぶ際、数多くの美しい曲や重要な曲を落とさざるを得なかったのだが、同じ題材を扱った曲を二つ選んだ場合もある。『壇ノ浦』と『壇ノ浦悲曲』である。基本的には同じ出来事を扱っているが、片方は「語りもの」であり、もう一方は歌唱に重点を置いた「歌いもの」という明白な違いがある。さらに『壇ノ浦悲曲』は山崎旭萃師の作曲であるが、華麗な貴族文化の時代であった平安時代(794-1185)に終止符を打った重要な歴史上の出来事を、現代の日本人がどのように捉えているかがはっきりと表れている。そのため、これを取り上げることには意味があると考えたのである。
私の選曲のなかで、演奏者にも聞き手にも等しく人気のある作品は、ほとんど源氏と平家の戦いに材をとったもので、主に『平家物語』を拠り所としている。『平家物語』は、数百年にわたり平家琵琶の伴奏を伴って語り継がれ、近代の琵琶文化にも大きな影響を与えてきたが、それにはこの叙事詩が仏教的な無常観を基礎として、戦という困難な時代に生きなければならなかった人々の喜怒哀楽を生き生きと描写した物語であるところが大きいと思われる。現代日本人の間で、『平家物語』は今も親しまれているが、琵琶と結びついた音楽作品であることは忘れられがちである。今そのことを強調することは、日本の音楽文化にとって非常に重要なことであると考えている。

シルヴァン 旭西
ギニャ―ル

1951年スイスに生れる。1975年チューリヒ市立音楽院でピアノの教授資格を取得後、チューリヒ国立大学に入学。1983年ショパンのワルツ研究によって音楽学博士号(PhD)を取得。同年琵琶の研究のために日本文部省留学生として来日。大阪大学文学部に在籍すると共に筑前琵琶を橘会宗範の山崎旭萃(人間国宝)のもとで学ぶ。1988年から大阪学院大学国際学部で比較芸能論を担当。1993年、高槻市制50週年記念高槻芸術選賞の文化奨励賞を受賞。
1994年演奏会シリーズ「琵琶プラス」(1994~2013年、リサイタル20本制作)、続いて「琵琶の調べ…」シリーズ(2015~ 2019年、リサイタル10本制作。たかくさ・わこ(ブライトワン株式会社)の協賛)を開催。1996年日本琵琶楽協会の33回琵琶コンクール特別賞受賞。同年、筑前琵琶橘会「師範」の資格を取得。1999~2003年同志社女子大学音楽学科教授。2006年から奥村旭翠(人間国宝)に師事し、2013年奥村旭翠会に入会。2014年筑前琵琶橘会「秀師範」の資格を取得。2015年、大津市文化賞を受賞。ドイツ、スイス、オーストラリア、アメリカで、国際交流基金の支援もあり、数多くのコンサートを開催。
琵琶音楽とショパンに関するドイツ語、英語、日本語での論考多数。

謝辞

  • 前田昭雄氏 / 山口修氏

    まず最初にチューリッヒ大学における私の研究の助言者であった前田昭雄教授(現ウィーン大学名誉教授)に心より感謝する。数年にわたって受講した前田教授の講義とセミナーに参加していなければ、日本音楽に触れ、研究テーマとして琵琶を選ぶこともなかったであろう。前田教授は、私がショパンのワルツで博士号をとった後、奨学金を得て日本へ留学し大阪大学の山口修教授(現大阪大学名誉教授)のもとで専門的に勉強するよう道を開いてくださった。その山口修教授が山崎旭萃師をご紹介くださったおかげで、その後23年にわたり筑前琵琶を学ぶことになったのである。

  • 山崎旭萃氏

    山崎旭萃氏は、1996年に琵琶奏者として日本初の「人間国宝」になられたが、私が弟子入りを願った時、すでに78歳になられていた。外国人の弟子をとるのは初めてであるが、英語が話せないうえ西洋音楽の教育を受けたことがなく五線譜が読めなかったため、私に教えることができるか確信が持てなかったとのことだった。私に琵琶を教えることは、私が琵琶の演奏と歌唱を学ぶのと同じくらいの冒険だったと思われる。
    師はすぐさま私を受け入れてくださったが、私に外国人だから理解できないという気持ちを抱かせることはけっしてなかった。本当にありがたく思う。師はつねに私をほかの日本人の弟子と同等に扱ってくださった。つまり、日本の伝統芸術の習得には年限を定めないという考えに従ったのである。私のために特別に一年あるいは二年の「集中コース」をしようなどとは思いもしなかったようだ。師の教えは、ある芸術を学ぶには長い時間がかかり、学ぶ人はそれとともに成長するということだったのである。
    稽古には多大な忍耐を必要としたが、100歳の誕生日を迎えた直後に逝去されるまでの23年間、私につきあってくださった。師の芸術における強い指導力がなければ、私の研究計画は数年で終わっていたことだろう。

  • 奥村旭翠氏

    奥村旭翠師は山崎師門弟のなかで最も傑出した弟子であり、山崎師が亡くなられた後、2006年に山崎師の門弟すべてを引き受けられた。私も奥村師のもとで稽古を続け、最初の数年間でレパートリーを増やし確実なものすることができた。師はつねに頑なともいえるほど意志強固な師匠であったが、これは弟子にとってはありがたいことである。数年にわたり私は奥村師のもとで新しい曲を学んだが、橘会の正統を断固として守ろうとする氏の強い姿勢に心打たれたものである。2015年には「人間国宝」の指定を受けられたが、それによって師の筑前琵琶芸術に対する功績が世に広く知られることとなった。

  • 橘旭帝氏

    筑前琵琶日本橘会の次期家元である橘旭帝氏には、序文原稿の日本語版および英語版を詳しく見ていただいた。とりわけ筑前琵琶橘流について、その歴史と橘家の系譜に関する貴重な情報を提供していただいた。ご協力に心から感謝する。

  • 薦田治子氏

    武蔵野音楽大学の薦田治子教授のおかげで序文は学術的に信頼できるものとなった。琵琶研究の最高水準の知見を的確かつ明快に教えていただいたのである。日本の琵琶の歴史研究における第一人者としての氏から貴重な批評や助言を得たことに心から感謝の意を表する。

  • 神田靖子氏

    私が1983年に国費留学生として大阪にやってきたとき、最初にプライベートに日本語を教えてくれたのが神田教授(現大阪学院大学名誉教授)であった。何年か後、幸運なことに、氏は私が教えていた大阪学院大学へ日本語学の助教授として赴任して来た。氏は音楽が好きなだけではなく、バイオリンの腕前も相当なものであった。
    当初から私の琵琶演奏会を手伝ってくれたのであるが、何年か後、琵琶曲の詞章を徹底的に研究してはどうかという提案となり、同僚の野口氏を紹介された。それが励みとなって本書の企画が始まったわけであり、当然ながら私たちのチームの一員となった。その後、音楽をする立場から、すべての曲に音楽に関する注釈をつけることも提案してくれた。英語に堪能な氏は専門の「談話分析」の翻訳にも携わっており、そのかたわら本文の英語訳や音楽ノートの原稿をみて、不明な点や不完全な訳をつねに指摘し、英文原稿を的確な日本語に訳してくれた。

  • 野口隆氏

    野口教授は、このチームのなかで琵琶曲の詞章を深く理解するために欠かせない中心的人物であった。野口氏の存在なくしてはこのプロジェクトは成り立たなかったことと思われる。
    日本の古典文学の専門家であり日本史についても豊富な知識を持っている。氏は不明な点を詳細に至るまで明らかにするためには努力を惜しまない。編集上の問題点を究明する氏の学問的手法は私たちがこぞって賞賛するところである。私も氏を通して詞章の背景について思いがけない洞察を得ることができた。氏の詞章の解釈には文献学の知見が反映されており、そのおかげで本企画は学問的にも信頼できるものになっていると確信する。

  • フィリップ・フラヴィン氏

    フィリップ・フラヴィン博士は本書のすべての文章の英訳を担当してくれた。氏の日本語能力は卓越しているため、翻訳の際、意思疎通上の問題はなかった。音楽を実践しているという氏の背景もまたおおいに役立った。氏はプロの三味線演奏家であり、また短期間ではあるが山崎旭萃師に学んだこともある。また氏は音楽学者でもあるが、日本文学と日本音楽についても豊富な知識を持っている。氏が、多忙な本務と自身の研究のかたわら翻訳に時間を割き、言語的に要求の厳しいこの企画に優れた英語のセンスを発揮してくれたことに感謝している。

  • ロジェー・ワルヒ氏

    映画制作者であるロジェー・ワルヒ氏は曲の演奏の録音を担当してくれた。氏自身ジャズ・ピアニストであり、すでにプロとして多くの録音をしているため、演奏録音には貧弱な条件を受け入れてくれたことに非常に感謝している。すべての曲の演奏を5年かけて、大津にある我が家のリビングルームで録音したのである。このロケーションは音楽スタジオとしては完璧ではあり得ないのだが、ワルヒ氏は高性能のマイクを選択することによってアマチュアのレベルを遙かに超えた高音質の録音をすることを可能にしてくれた。また日本語も堪能であるため、演奏中に撮影ショットを中断してもなんら問題がなかった。私の演奏が琵琶演奏者として得られる最高の音質で録音されていることは氏の感性のたまものであると感謝する。

  • アンネマリー・ギニャール氏

    私の妻であるアンネマリーの理解と支えがなくては何もできなかったことだろう。

ご挨拶

  • 筑前琵琶 橘流 日本橘会
    副会長 / 次期家元

    法明院 橘 旭帝

    S.ギニャール氏との出会いは、当日本橘会の山崎旭萃 宗範から外国人の入門者に日本語で琵琶指導を始めたと伺った時でした。日本で琵琶人口が少ない中、外国人が「琵琶」という日本の伝統芸術に興味を持ったことを喜ばしく思いながらも、正直なところどの位継続するのだろうか、と然程期待はしていませんでした。それ以来、会の行事や演奏会等で彼の演奏を聴く機会が多々あり、日本語の上達と共に徐々に琵琶技能を高めていく姿を頼もしく思いました。因みに、彼の法号と雅号はスイス出身に由来し、国名が「瑞西」と漢字表記されることから、家元が「法瑞院」「旭西」と命名しました。
    これまで筑前琵琶の総合的概容は無に等しく、中には誤った解釈や事実と異なる記載がされている書物や資料もあり、この度の琵琶、就中、筑前琵琶に関する概論を作成すると伺った時、家元と共にその完成を期待し、楽しみにしておりました。時間をかけて取り組まれたその研究執筆活動は努力の賜と敬意を表します。
    私たち日本人にとって日本語は母国語であり、日常に於いて都度一語一句の意味、定義や概念を考え、文法の規則に引き当てながら使用したり、言葉を発している訳ではありません。英語も然りですが、日本語も一語で複数の意味を持つ多義語が多くあります。旭西氏は琵琶曲に書かれている詞章の語彙を調べ、曲のメロディーの中でイメージとしてその言葉がどのような意味合いを持っているのか感覚的に捉えて演奏に反映しているのです。
    私の曽祖父である初代 橘 旭翁までは弾法譜はなく、手数や節回し等は口伝だった為、祖父の先代 家元 橘 旭宗一世が19歳の時、旭翁に弾法譜の刊行を進言、琵琶で初めての譜を考案し承諾を得、「橘旭翁校閲、筑前琵琶弾法譜 橘旭宗編」を発行しました。この初めての弾法譜発行の結果、「手」が統一され、習得にも寄与し、この道の発展に大いに役立ったことは言うまでもありません。
    旭宗一世は日本橘会創立以降、生涯で400数十曲余りを作曲し譜本として遺していますが、譜本、弾法譜共に記述されている内容の一つひとつが理路整然と系統立てられており、譜本に書かれてある其々の語彙や語尾、印、音程、手合いは全て意図して構成されています。曲集に作曲者が意図的に記したこれら語彙、語尾、印、音程、間奏などから、作曲者自身が何を想い、どのようなイメージを伝えたかったのかを演奏者が思い描くことで、より表現力豊かな演奏となり、聴き手が登場人物の喜怒哀楽を感ずると共に、その場面の映像を再現できることが理想的な演奏と言えるでしょう。
    琵琶は「語り物」と言われますが、単に言葉を歌唱し、語るのではなく、琵琶の手合い、音程、間合い、音色そのもの等で言葉をより深く立体的に表現し、詞章と琵琶が一体になって初めて「語り物」として活きてきます。
    今回の旭西氏の概容は永年に亘る筑前琵琶習得体験の中で多角的方面からアプローチをし、彼が外国人であり、琵琶をゼロから始めたが故に、第三者的観点から筑前琵琶を器楽として、また詞章の種種分析を試みることができたのではないかと思います。
    この著書が旭西氏の38年間の琵琶との関わりの集大成としてのみならず、彼の生涯のライフワークとしての新たな第一歩を踏み出し、更なる成長をして頂きたいと思います。
    琵琶を初めて見聞きする日本、海外の方々にとって琵琶という器楽、その歌曲について理解いただく一助となると共に、既に琵琶をなさっている方にとっても一考する機会となることを願っています。

  • 筑前琵琶 橘流 日本橘会
    専務理事 / 大師範
    人間国宝 法和院

    奥村旭翠

    我々演奏者は「音程」「リズム」「音色」には、とても敏感に反応しますが、生まれてから親しんでいる「日本語」は当たり前の言葉で、何の違和感も感じずに見過ごしていると思います。しかしこうして彼の研究を見ると、改めて言葉を考える機会になりました。
    外国人であるが故に取り組まれた研究は演奏者にとって、貴重な資料になると思います。

  • 武蔵野音楽大学教授

    薦田治子

    S.ギニャールさんが、この度、琵琶の本を完成なさったと伺い、喜びの感に堪えません。
    楽器としての琵琶は奈良時代以前から日本に伝わり、そのルーツは遠く西アジアに遡ります。歴史的にも地理的にも大きな広がりのある楽器です。S.ギニャールさんがこの本で扱っておられる筑前琵琶は、薩摩琵琶と並んで明治時代後半(19世紀末)から昭和(20世紀前半)にかけての日本で、全国的に大流行しました。この時代には、西洋音楽が日本に導入され、子どもたちは学校で西洋風の唱歌を学び、滝廉太郎や山田耕筰らが西洋の音楽様式で本格的な作品を作りました。ところが、そうした時代に、西洋音楽の影響をあまり受けずに、日本人の伝統的な音楽様式に基づいて新しい分野を切り開いていったのが薩摩琵琶と筑前琵琶だったのです。
    音楽としての歴史が新しいゆえに、「伝統音楽」としての評価が定まらず、その研究に手を付ける日本人研究者は少なかったのですが、そうした理屈にとらわれることなく、鋭敏な耳と柔軟な感性で琵琶楽に日本音楽の真髄を感じ取った外国人の研究者たちがいました。S.ギニャールさんもそのおひとりで、日本に住み着き、筑前琵琶の技法を一から学び、演奏家として活動しながら、生涯をかけて研究成果を積み重ねてこられました。
    明治以来、西洋音楽の吸収に多くの力を注いだ結果、いまや多くの日本人にとって、西洋音楽のほうが身近にあり、日本の伝統音楽は異文化の音楽のようになってしまいました。そうした中で、S.ギニャールさんのライフワークともいうべきこの御著書を通して、私たちはもう一度日本の伝統音楽の魅力を見直し、再発見することができるのではないかと思っています。そして英語とドイツ語の翻訳のページの力を借りて、この音楽を海外に紹介し、普及させることも夢ではなくなってきたと思います。
    折に触れて演奏を伺い、研究会でご一緒し、論文作成のお手伝いをし、ヨーロッパへの演奏旅行でお手伝いをお願いするなど、ギニヤールさんとの思い出は尽きませんが、親しくお付き合いさせていただき、その真摯な取り組みにいつも心打たれてきました。S.ギニャールさんに心から感謝するとともに、この御著書が広く読まれ、活用されることを願ってやみません。

  • 日本琵琶楽協会理事長

    須田誠舟

    S.ギニャール兄は1983年に来日以来、筑前琵琶習得をこころざし、不世出の名人山崎旭萃師に教えを受けました。現在、筑前琵琶界を代表する演奏家の一人で、その芸術に感服しない人はいないと思います。
    このたび、筑前琵琶「橘会」の演奏曲目の内22曲を選んで解説書を上梓され、あわせて全曲を兄の演奏によって録音し当サイトにて試聴できるという。山崎旭萃師譲りの入神の技を聞かせてくれるはずである。また、その解説は英語版、ドイツ語版も用意され、全世界に筑前琵琶の魅力を発信されるという画期的な企画であります。日本の琵琶楽、日本の文化の国際的な評価につながる意義ある事業であることは間違いなく、心からの敬意を表したいと思っています。
    2017年6月2日に文京区音羽の鳩山会館で兄が演奏された「那須与市」は今も深く心に残っています。夕日のさしこむ2階大広間に集まった100人程の聴衆に、筑前琵琶の弾法の中から「桐の手」について、そのゆっくりとしたリズムは馬の歩調をイメージさせると簡単な解説があって、演奏は始まりました。「黒き馬の太うたくましきに、丸ぼやすつたる金覆輪の鞍を置いて乗たりけるが、弓取り直し手綱かいくつて、汀へ向いてぞ歩ませける」、曲もクライマックスにいたり、会場の雰囲気は一人残らず夕日に染まる屋島の波打ち際へ誘われていきました。「春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける、皆紅の扇の日出いたるが、夕日にかかやいて、白波の上に浮きぬ沈みぬゆられけるを、沖には平家船端をたたいてかんじたり、陸には源氏箙をたたいてどよめきけり」、しばしの沈黙の後、聴衆全員がどよめいて兄の演奏を称えました。
    今回の当サイトに含まれる演奏曲目には、「那須与市」も含まれるという。世界各地からどよめくように称賛の声が届けられることを期待しています。