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治 より乱に入り -
乱より
治 に入り -
元 亀 天 正 も夢と過ぎ - 世は寛永の春風や
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身は柳営の
主 として -
威武八
荒 に耀 きし - 年少気鋭の家光は
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三百諸侯を引
具 なし -
鞭声 いとも粛 々 と -
三 縁 山 のかへるさに -
仰ぐ
愛宕 の山ざくら -
高く
岨 立 つ磴道 の -
上に
翳 せる一 と枝は -
花の風情もいと
妙 に -
心
憎 くぞ見えにける -
何 に思ひけん家光は -
誰 ぞある馬にて -
此の石段を駆け
上 り - あの枝取って参れよと
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仰せに
並 居 る諸大名 - 従ふ譜代の旗本も
- 互に顔を見合せて
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弓矢の
中 に死すならば -
予 て覚悟の事なれど -
斯 る戯 なる言の葉に - 捨てん命の惜まれて
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頓 に返辞 もなさゞりき -
家光こゝろ
焦 立てゝ -
如何 に如何にと促 せば -
台命 今は是非もなく -
仕 ふる主 の面目に -
吾れ
仕 らんと立出づるは - 伊勢藤堂の馬術指南
- 山本右京忠重なり
- 駒の手綱を引締めて
- はいよはいよと勇ましく
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二十余段
上 りしとき -
馬は
前肢 踏みはづし -
どうと
計 りに落ちにけり -
続いて
罷 り出でたるは - 秋田佐竹に知られたる
- 鳥居喜一郎重房なり
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腕に覚えの
鞭 を揚げ -
どうどうどうと駆け
上 る -
之 は如何にと見る中 に -
石段
半途 に崩れ落つ -
家光
嚇 と怒らせ給ひ -
いで此の上は
自 らが -
武門の
冥加 に上 らんと -
逸 らせ給ふを大久保は -
馬前にハタと立
塞 がり -
千金の子は
市 に死せず -
必ず短慮な
仕 給 ひそ -
吾 れ老ひたりと申せども -
公 に代って仕 らんと
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急ぎ
凖備 ぞなしたりける -
此時馬前に駆け
出 でしは -
三十路 に余る武士一人 -
赤心 面 にあらはして - 彦左が前に申すやう
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某 こそは讃 州の -
生駒
将監 が家臣なる -
曲 垣 平九郎盛澄 なり -
陪臣 の身の恐れながら -
仰 せを果し候べし -
上 へ御取計 ひ願はんと - 聞くより家光喜びて
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武道に
上下 の隔てなし -
疾 く仕 れと仰せける - ハッと答へて盛澄は
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連 銭 葦 毛 の逞 ましき -
逸 りにはやる春駒に -
打
跨 りて石段の -
前に二三度輪を
描 き -
馬人 共に幾たびか -
見上げ見
下 す愛宕山 -
時 分 はよしと鞭をあげ -
はいどうどうの
懸声 に -
蹄 の響かつかつと - 上へ上へと登り行く
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あれよあれよと見る
中 に -
石段
半途 を過ぎし時 - 馬上の姿見えざるは
- 之ぞ曲垣が秘術なる
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霞がくれの
一 手 なり -
馬は
歩調 も乱さばこそ - 次第次第に登り詰め
- 桜間近くなりければ
- 盛澄姿をあらはして
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一と枝折りて
襟 にさし - 立つや愛宕の山の上
- 家光始め一同は
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固 唾 を呑んで見入りしが - 此の有様に思はずも
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どっと揚げたる
鬨 の声 -
山も
揺 がん計りなり -
峻 磴 馬ヲ躍 ラシテ一鞭雄 ナリ - 三百ノ諸侯夢中ニ仰グ
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千古ノ絶技
誰 カ又似ン -
英 姿 颯爽 春風ニ耀 ク -
盛澄
衣 紋 とゝのへて -
馬の呼吸を打
鎮 め -
女 坂を廻 り悠々と -
公 の馬前に馬を下 り -
桜
捧 げて平伏 しぬ -
家光打見て
微 ぞ笑み -
あっぱれ
日本 一の馬術者と -
賞讃 たゝへたる言の葉は -
家の面目身の
誉 れ -
末 世 の鑑 と残りける
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1.-2.
平和な世もやがて乱れ
乱れた世がまた平和になる -
3.-10.
戦国時代も過ぎ去って
世は寛永の穏やかさ
その身は幕府の主として
威厳が広くゆきわたる
若く才気の徳川家光
大名たちを引き連れて
鞭の音さえおごそかな
増上寺からの帰り道 -
11.-15.
見上げる愛宕の山桜
高くそびえる石段の
上に張り出す一枝は
花の様子も素晴らしく
心を奪われそうである -
16.-19.
何思ったか家光は
「誰かおらぬか馬に乗り
この石段を駆け上がり
あの枝を取ってまいれ」と -
20.-27.
言われて居並ぶ諸大名
徳川譜代の旗本も
互いに顔を見合せて
武士がいくさで死ぬのなら
前から覚悟しているが
こんなふざけた命令で
命を捨てるのは惜しく
すぐに返事も出来はせぬ -
28.-30.
家光は苛立って
「さあさあどうだ」とせき立てる
将軍様の御命令
拒むことなど許されぬ -
31.-39.
「わが殿の名誉のため
自分こそが」と現れたのは
伊勢藤堂家の馬術指南
山本右京という侍
馬の手綱を引き締めて
はいよはいよと勇ましく
二十段ほどのぼったが
馬は前足踏みはずし
どうと音たて落ちてゆく -
40.-46.
次に現れ出てきたのは
秋田の鳥居喜一郎
腕に覚えの鞭を振るって
どうどうどうとのぼってゆく
「これはどうか」と見ていたが
石段半ばで崩れて落ちた -
47.-51.
家光ついに怒り出し
「もうこうなったら自分でのぼり
武道の神に祝福されよう」と
はやるを大久保彦左衛門
馬前にはたと立ちふさがった -
52.-56.
「立派な身分のかたがたは
軽々しくは死なぬもの
決して短気はなりません
年はとったがこのわたし
上様の代わりにつとめましょう」と
早速準備をととのえた
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57.-60.
この時そこに駆けつけた
三十あまりの一人の武士
真心こもる顔付きで
彦左衛門に申し出る -
61.-66.
「わたくしは讃岐藩
生駒将監の家中の者で
曲垣平九郎と申します
陪臣の身で恐縮ですが
御命令を果たしましょう
お取り次ぎを願います」と -
67.-69.
聞いた家光喜んで
「武道に身分は関係ない
早速やれ」とおっしゃった -
70.-76.
「はっ」と答えた平九郎
はやり馬にまたがって
石段の前で二度三度
輪をかくように歩かせつつ
見上げて見下ろす愛宕山 -
77.-80.
そろそろよしと鞭を上げ
「はいどうどう」と声をかけると
馬はひづめを響かせて
上へ上へとのぼってゆく -
81.-85.
あれよあれよと見ているうちに
半分以上のぼった時
馬上に人の姿が見えぬ
これこそが曲垣の秘術
霞隠れという一手 -
86.-91.
馬は歩みを乱さずに
次第次第にのぼり詰め
桜の近くになった時
曲垣は姿を現して
一枝折って襟にさし
立った愛宕の山の上 -
92.-96.
家光始め一同は
固唾を呑んで見入っていたが
この様子を見て思わず知らず
どっとあがった大きな声
山も揺るがすほどだった -
97.-100.
急な石段鞭をふり
踊るように馬は進む
見上げる大名夢心地
真似のできないすごい技
春風に映えるその姿 -
101.-105.
曲垣は衣服をととのえて
馬の呼吸をしずめてから
おんな坂を悠々くだり
将軍の前で馬を下り
桜をささげてひれ伏した -
106.-110.
これ見て家光微笑んで
「あっぱれ馬術日本一」と
ほめたたえたその言葉
家にも身にも晴れがましく
末代までの手本となった