- 麻と乱るゝ戦国の
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										人とし言へば
											誰 もかも
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										馬を養ひ兵を
											練 り
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											糧 を収 めて剣 を磨 す
- 頃は天正十年夏五月
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										徳川家康
											封 ぜられ
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											安 土 城下に入りしかば
- 織田右大将信長は
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										いと
											鄭 重 に迎へんと
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											直 に惟 任 光秀に
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											饗 応 の役をぞ命 ぜらる
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											御 請 けなせし光秀は
- 乱れたる世に心得し
- 都の手振見せばやと
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										さしも
											目 出 度 勤 めしを
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											小人 輩 の言 により
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										善美
											過 分 の評 を受け
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											疑 心 暗 鬼 は信長の
- 胸にやどりし時も時
- 羽柴秀吉中国より
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											援 けの兵を請 ひしかば
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											厳 命 忽 ち光秀の
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											頭 の上にぞ下 りける
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										光秀
											私 かに思ふやう
- 人もあらんに此の我に
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										羽柴が
											命 に従へとは
- あな情けなの我君やと
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										歯がみをなして
											恨 みしは
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										君に
											仕 ふる人臣の
- よも有るまじき事なれど
- また信長を見る時は
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											右 大将とも仰 がるゝ身に
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											粗 暴 の振舞いと多く
- 或時は蘭丸をして
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										光秀が
											頭 に鉄 扇 を加へさせ
- 又或時は好まぬ酒を殊更に
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											我意 を通 して進 めしめ
- 志賀の都の領地さへ
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											三 年 の内には事なくも
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											奪 ひ返さん説 を聞く
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										今又
											産 をかたむけて
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											新 に来りし家康に
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										心づくしの
											饗応 も
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										琵琶湖の水の
											泡 と消え
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										押へし
											焔 むらむらと
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											燃 ゆる思ひの光秀が
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											拳 を握 りて立上り
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										動く
											睫毛 の間 より
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											由々 しき大事のほの見えしを
- 露だも知らぬ信長は
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										諸将を
											安 土 に留 め置き
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											親 ら近 臣 百余人
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										引従へて
											京都 なる
- 本能寺にぞ入りにける
- 時こそ来れと光秀は
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										一族郎党を
											駆 り集め
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											暴 戻 無 道 の弑 逆 を
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											企 てしこそ浅ましけれ
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										かくて士卒を打
											揃 え
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										中国勢を
											援 けんと
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											偽 り向ふ大江山
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										心の駒も
											烏 羽 玉 の
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											暗 路 を急ぐばかりにて
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										東を
											指 してぞ進みける
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											本 能 寺 溝 ノ深サ幾尺 ナルゾ
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										我レ大事ヲ成スハ
											今夕 ニ在リ
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											糠 糟 手ニ在リ糠 ヲ交 エテ食 ウ
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											四 檐 ノ梅雨天墨 ノ如シ
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											老 ノ坂西ニ去レバ備中ノ道
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											鞭 ヲ揚ゲテ東ヲ指 ザセバ天猶早シ
- 我敵ハ正ニ本能寺ニ在リ
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										敵ハ備中ニモアリ汝
											能 ク備 エヨ
- こゝに始めて軍勢は
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											漸 く二心 と悟 りしが
- 捨つるいのちは一つぞと
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										時しも六月
											二日 の朝まだき
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										露の
											身 軽 き軍 兵 が
- 本能寺を取り囲み
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											鬨 をつくりて攻め入りける
- 此の物音に信長は
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											寝 覚 の耳を欹 つれば
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											紛 ふ方なき人馬の声
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											館 間近く聞ゆるにぞ
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											枕 を蹴って立上り
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											疾 く見届けよとありければ
- 森の蘭丸かしこまり
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										表の
											方 に走り出で
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										見越の松に
											走 せ上 る
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										ふりさけ見ればこは
											如何 に
- 雲か霞か白旗に
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										染めたる
											桔梗 の紋所 
- 見るより蘭丸引返し
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										光秀
											謀 叛 と答ふるに
- かっと怒りて信長は
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											者共 覚悟と呼 はりて
- 弓矢おっ取り立向ふ
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										寄せ
											来 る敵を物ともせず
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											瞬間 に数 十 騎 を
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										矢つぎ
											早 に射 て落し
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										勢ひ鋭く
											防 ぎしも
- 只一と筋と信長が
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											頼 む弓弦 フッツと切れ
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										得たりとつけ入る
											豪 敵 を
- すかさず弓もて打て伏せ
- とかくするうち信長は
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											左手 の腕 に痛 手 を負ひ
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										蘭丸代って
											防 ぐうち
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											宿直 の者もことごとく
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											茲 を先途と戦へども
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											衆寡 敵せず信長は
- はや是迄とや思ひけん
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											自 ら館 に火を放ち
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											煙 の中 に飛び入りて
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											刃 に伏してぞ果てにける
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										あゝ
											豪邁 の信長が
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										空をも
											覆 はん大鵬 の
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											図 南 の翼 中空 に
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											燕 雀 のため悩 まされ
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											終世 の望み絶えたるは
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											獅子 身中の虫に斃 れたる
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											謗 を口 碑 に伝へけり
- 続いて蘭丸を始めとし
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											坊 丸 力 丸の小姓ども
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										まだ
											末若 き稚 子 桜
- 嵐の山の朝風に
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										いとも
											床 しき香 を止 めて
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										散るやちりぢり
											後 や先
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										百有余人
											諸共 に
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										哀れ本能寺の
											煙 と消えにける
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										つらつら古今を
											按 ずるに
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										人に君たる王
											侯 の
- 心すべきは徳にこそ
- 心すべきは徳にこそ
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										1.-4. 戦国時代世は乱れ 
 武将は誰も力をたくわえ
 剣を磨く心がけ
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										5.-7. 天正十年夏の頃 
 徳川家康あたらしく
 領地たまわるその礼に
 安土の城にやって来る
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										8.-15. それを迎える織田信長は 
 明智光秀呼び出して
 接待役に指名した
 うけたまわった光秀は
 これこそ腕の見せどころと
 見事立派につとめたが
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										16.-19. 心の狭い者がいて 
 あの接待は度が過ぎると
 噂したので信長も
 疑心暗鬼になった頃
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										20.-23. 備中にいる羽柴秀吉 
 援軍頼むと言ってきた
 そこで今度は光秀に
 出陣せよと御命令
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										24.-30. 光秀心に思うには 
 「こともあろうにこの私に
 羽柴の下で働けとは
 あら情けない上様」と
 歯ぎしりをして恨むのは
 家来の道ではないけれど
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										31.-33. しかし思うに信長は 
 高い身分にありながら
 手荒なことが多かった
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										34.-37. ある時は森蘭丸に 
 鉄の扇で光秀の
 頭を打たせたこともある
 飲めない酒を光秀に
 無理強いをしたこともある
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										38.-40. 今の領地の志賀でさえ 
 罪もないのに三年後
 取り上げられるかもしれぬ
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										41.-49. 今度も金を惜しまずに 
 心をこめて家康を
 もてなしたのも水の泡
 心の中でめらめらと
 燃える思いの光秀が
 拳を握る眼の色に
 決意のほどが見えたのを
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										50.-54. 何も知らない信長は 
 主な武将を安土に残し
 わずか百人引き連れて
 向かう都の本能寺
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										55.-58. さあ時が来たと光秀は 
 軍勢すべて引き連れて
 主君殺しを企てた
 世にあさましいことではある
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										59.-64. ともあれ揃う明智勢 
 援軍として備中に
 行くふりをする大江山
 心も暗い夜の道
 東に向けて進みゆく
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										65.-72. 「本能寺堀の深さはどれほどか」 
 今夜わたしは事をなす
 そう決意した光秀が
 粽手にして茫然と
 皮もむかずに食べている
 あたりは雨が降りこめて
 空の暗さは墨のよう
 老の坂は別れ道
 西に向かえば中国路
 しかし東を指さして
 「敵は正しく本能寺」
 いや光秀よ本当の
 敵は備中油断をするな
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										73.-79. かくして明智の軍勢は 
 殿様謀叛とわかったが
 どうせ一度は死ぬ命と
 六月二日の朝はやく
 本能寺を取り囲み
 おめき叫んで攻め入った
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										80.-85. 音に目覚めた信長が 
 聞けば確かに人馬の声
 枕を蹴って立ちあがり
 「何があったか見届けよ」
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										86.-91. そう命ぜられて蘭丸は 
 庭の松木にかけのぼり
 ふと上空を見上げると
 寄せ手の掲げる白旗に
 何と桔梗の紋所
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										92.-96. とって返して蘭丸が 
 「光秀謀叛」と告げたので
 かっと怒った信長は
 「みな覚悟せよ」と叫びつつ
 弓おっ取って立ち向かう
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										97.-104. 寄せ来る敵にひるまずに 
 あっという間に数十騎
 次々に射て防いだが
 只一本の頼みの綱
 弓の弦さえふっと切れ
 しめたと進んでくる敵は
 そのまま弓で叩き伏せる
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										105.-114. やがて左の腕に傷 
 主にかわって蘭丸や
 居合わせた者皆すべて
 死力を尽くして戦うが
 多勢に無勢信長も
 「もはやこれまで」観念し
 みずから館に火をかけて
 煙の中で自刃した
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										115.-121. 気宇壮大の信長の 
 大鵬にも似たこころざし
 それを小鳥に遮られ
 一生かけた大望が
 道の半ばで絶えたのは
 身内に裏切られたからと
 世にそしられることもある
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										122.-129. 主に続いて森蘭丸 
 更に坊丸・力丸も
 朝の山から吹く風に
 若い桜の花散らし
 後にゆかしい香を残す
 散ってゆくのは誰が先
 百人あまりの者たちが
 煙と消えた本能寺
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										130.-133. よくよく歴史を思うなら 
 人の上にも立つ者は 徳を積むのが大切だ

















 
						 
						