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舟弁慶

解説

壇の浦合戦の後、兄頼朝に疎まれた源義経は都を落ち、西国を目指して摂津大物浦から船出しようとしていた。しかし文治元年十一月六日(西暦1185年11月29日)、折からの暴風雨にあって船は難破し、一行は散り散りになったと『吾妻鏡』に伝えられる。この時の様子を描いた文学作品が数多くあり、そのうち『義経記』は、武蔵坊弁慶が播磨書写山(姫路の西方)にかかる黒雲を平家の怨霊と看破した、という要素を付加している。それを一層発展させたのが謡曲『舟弁慶』で、前場では静御前が義経との別れを惜しみ、後場では平知盛の亡霊が登場して義経の行く手をさえぎろうとするが弁慶の折伏によって退散する。この作は室町時代から江戸時代にかけて広く流布し、明治十八(1885)年にはこれをもとにして河竹黙阿弥(1816-1893)の作詞した歌舞伎『舟弁慶』が初演されている。注に一々指摘したように、本曲も謡曲『舟弁慶』に依拠する個所が非常に多い。

参考文献

島津久基『義経伝説と文学』 大学堂書店 1935
岡見正雄校注『義経記』(日本古典文学大系) 岩波書店 1959
横道萬里雄・表章校注『謡曲集 下』(日本古典文学大系) 岩波書店 1963
伊藤正義校注『謡曲集 下』(新潮日本古典集成) 新潮社 1988
西野春雄校注『謡曲百番』(新日本古典文学大系) 岩波書店 1998
梶原正昭校注『義経記』(新編日本古典文学全集) 小学館 2000
浅川玉兎『長唄名曲要説』 2001(改訂初版)
藤原成一『弁慶 英雄づくりの心性史』 法蔵館 2002
志村有弘編『源義経 謎と怪奇』 勉誠出版 2005
五味文彦『物語の舞台を歩く 義経記』 山川出版社 2005
志村有弘編『源義経 謎と怪奇』 勉誠出版 2005
『伝統芸能シリーズ 日本舞踊曲集成 歌舞伎舞踊編』(別冊演劇界) 演劇出版社 2004

あらすじ

壇の浦の戦いののち、兄頼朝に不忠の嫌疑をかけられた義経は都を落ちて西国へ逃れることになった。石清水八幡宮に旅の安全と武運を祈りつつ淀川を下り、尼崎の大物港に着いた。そこで弁慶は、落ちゆく旅に女性を同伴するのは似つかわしくない、静御前を都に返すようにと義経に進言した。義経は静に、別れは辛いが勝って戻るまで都で待っているように言う。頼む弁慶も門出を祝う盃をすすめつつ涙した。心得た静はふたたび都で会うことを念じ、烏帽子をつけて別れの舞を舞った。風が止んで義経が船を漕ぎ出すと、静は舞装束を脱ぎ捨て涙ながらに見送るのであった。
船が海に出たとたん、一天にわかにかき曇り、押し寄せる高波にもまれ岸へは近づけない。ふと目をやると海の彼方に平家一門の怨霊が雲霞のごとく現れ、知盛の亡霊が義経に向かって襲いかかってきた。義経、少しもあわてず刀を抜いて立ち向かった。しかし弁慶は弓矢の通じる相手ではないと、数珠をもみつつ一心不乱に五大明王に祈ったところ、やがて悪霊たちは鎮まり、次第に波間に消えていった。

『舟弁慶』(作者不明)

  • 詞章
  • 現代語訳
  1. 浮きたつ雲の 行方 ユクエ をや
  2. 風の心に任すらん
  3. 今はた我も流れの身
  4. 定めなき世の習ひかな
  5. 時しも文治の初めつ方
  6. 判官 ほうがん 都を 遠近 おちこち
  7. せま くならぬ其先に
  8. 西 さい ごく かた へと志し
  9. よど の流れを漕ぎ下る
  10. 時雨 しぐれ の葦の うき とり
  11. 夢なさましそ 舟人 ふなびと
  12. 世の中の人は何とも いわ みづ
  13. 澄み にご るをばしかすがに
  14. 神ぞ知るらん 行末 ユクスエ
  15. 武運を守らせ給へやと
  16. 高き 影を伏し拝み
  17. 風に任せて行く程に
  18. やがて暮れ行く 入相 イリアイ
  19. 空は一つに雲の波
  20. 煙の波もはるばると
  21. こゝぞ津の国尼が崎
  22. 大物 たいもつ の浦に着きにけり
  23. 弁慶 ゼン にまかり
  24. 言葉を改め申すやう
  25. いかに我君お恐れ多き事 ナガ
  26. 静は正しく おん 供と見えて候が
  27. 今の 折節 をりふし にょ しゃう を召具し給ふこと
  28. 似合はしからず候らへば
  29. 世にも痛はしく候へ共
  30. 都へ おん 帰しあれかしと
  31. いと 本意 ほい なげにぞ申しける
  32. 判官 ホウガン これをきこしめし
  33. げにげにそれも 道理 ことわり なり
  34. 如何 イカ に静我れ此度思はずも
  35. いゝ 甲斐 がい なき者の ざん により
  36. 落人 おちうど となりて下る所に
  37. これまで参りし志し
  38. かへすがへすも神妙なり
  39. さり乍ら千里の波路 遥々 はるばる
  40. 汝を ともな い行かんこと
  41. しか るべからず思ふなり
  42. 一先づ都へ立帰り
  43. 時節を待てとぞ ノタマ ひける
  44. 弁慶共に慰めて
  45. 君は唯世の聞えをば
  46. 思召 おぼしめ しての事ぞかし
  47. 御心変りとな思召しそ
  48. しばしが程の おん 別れ
  49. 行末千代とぞ菊の酒
  50. 静にこそはすゝめけれ
  51. いや カク に数ならぬ
  52. 身には恨のなけれども
  53. これは船路の門出なるに
  54. 波風も静をとゞめ給ふかと
  55. 涙を流しゆうしでの
  56. 神かけて変らじと
  57. 契りし事も定めなや
  58. にや別れより
  59. まさりて惜き いのち かな
  60. 君に再び逢はんとぞ思ふ
  61. いかに静どの
  62. 心中察し申し
  63. 我等も 落涙 らくるい 仕って候
  64. 御歎 おんなげ きはさる事なれど
  65. 旅の船路の 首途 かどいで の和歌
  66. たゞひとさしと すゝ むれば
  67. 其時静は立上り
  68. 時の調子もとりあへず
  69. こう ノ郵船風静マッテ出ヅ
  1. とう 謫所 たくしょ ハ日晴レテ看ユ
  2. これに烏帽子の候
  3. 召され候らへ
  4. 立舞ふべくもあらぬ身の
  5. 袖うち振ふ悲しさよ
  6. なほ頼め しめ が原のさしもぐさ
  7. 我れ世の中にあらん限りは
  8. かく そん えい いつわ りなくば
  9. やがて 世に 出船 いでふね
  10. フナ ドモ はや ともづな をとくとくと
  11. すゝ め申せば判官も
  12. 旅の宿りを出で給ふ
  13. 静は あと を見送りつ
  14. 帽子 ぼし 直垂 ひたゝれ 脱ぎすてゝ
  15. 涙に むせ ぶおん別れ
  16. 見る目もいとゞ哀れなり
  17. 急ぎ 船を いだ すべしと
  18. 立ち騒ぎつゝ船子共
  19. えいやえいやとゆう汐に
  20. つれて船をぞ出だしける
  21. あら笑止や風が変って候
  22. いぶか しや 黒雲 くろくも 俄に みなぎ り渡り
  23. あの 武庫 むこ やま
  24. づり だけ より吹き おろ す嵐に
  25. 白波 あお りて へさき を越え
  26. 右手 めて かた にも 左手 ゆんで にも
  27. おしもかへらぬ不覚さよ
  28. すはや はやて だん すな
  29. 綱引 おろ とま 巻けと
  30. かじ 共必死に振舞へど
  31. 波は ごう しゃ の如くにて
  32. くが に着くべき よう ぞなき
  33. サテ も不思議や海上を見れば
  34. 西 さい ごく にて ほろ びし平家の一門
  35. 雲霞の如く遠近に
  36. 波に浮びて出でたるぞや
  37. ソモソ コレ かん 天皇九代の 後胤 こういん
  38. たいら の知盛が ゆう れい なり
  39. あら珍らしや如何に義経
  40. 思いも寄らぬ浦波の
  41. 知盛が沈みし有様に
  42. また義経をも打沈め
  43. らく の底へ引っ立てんと
  44. 大長刀 おゝなぎなた を振りかざし
  45. うしを を蹴立てゝ悪風を吹きかくれば
  46. まなこ もくらみ心も乱れ
  47. 前後を ぼう ずるばかりなり
  48. 其時義経少しも騒がず
  49. たとひ悪霊 うら みをなすとも
  50. そも何事のあるべきぞと
  51. 太刀 タチ 抜き放ち戦へば
  52. 弁慶あなやと押 へだ
  53. 打物業 うちものわざ にて叶ふまじと
  54. ふなばた に突っ立ち上がり
  55. じゅ さらさらと押揉んで
  56. 五大明王の御名にかけ
  57. 一心こったる ねん の信力
  58. さしもの 悪霊 あくりょう 敵しかね
  59. 次第次第に遠ざかる
  60. 弁慶こゝぞと力を合せ
  61. 押せや者共漕ぎのけよと
  62. なぎさ かた へ寄せんとすれば
  63. 怨霊 おんりょう は立ち現はれ
  64. のが さじものと寄り るを
  65. 追っ払ひいのりのけ
  66. 又引く汐にゆられゆられ
  67. あと白波とぞなりにける
  68. あと白波とぞなりにける
  • 1.-4.

    雲のゆくえは風のまま
    人も流れに身を任す

  • 5.-9.

    時はあたかも文治元年
    都を落ちた義経は
    急ぎ西国めざすため
    船で淀川下りゆく

  • 10.-17.

    向こうに見える石清水
    世間が何と言おうとも
    わたしの心は澄んでいる
    それ御承知の八幡様
    ゆく末お守り下さいませ
    拝む間も進む船

  • 18.-22.

    やがて日も暮れ雲の波
    船は川浪乗り越えて
    摂津の国は尼崎
    大物の浦にたどり着く

  • 23.-31.

    弁慶言葉を改めて
    「申し上げますわが君様
    おともの静殿のこと
    ここから先の御同伴
    よろしくないと存じます
    つらいことではありますが
    都へ御帰し下されませ」と
    言いにくそうに御進言

  • 32.-43.

    しかし義経聞き届け
    「たしかにそれはもっともだ
    静よどうか聞いてくれ
    つまらぬ者の陰口で
    都を落ちてきたわたし
    ここまでついて来てくれた
    そなたは立派な心がけ
    とは言うもののこの先は
    連れて行くことできぬのだ
    都に戻って時を待て」

  • 44.-50.

    弁慶もことばを添えて
    「これはあくまでわが君の
    御名に傷をつけぬため
    心変わりでないのです
    しばらくお別れするけれど
    いつか再び末永く」
    酒一献を進めると

  • 51.-60.

    「とるに足りない身のわたし
    ゆめお恨みはいたしません
    ただせっかくの船出の日
    ひとりとどまる残念さ
    決して変わりはしませんと
    神に誓った二人の仲
    なのに別れるこのつらさ
    けれど長生きさえすれば
    また会える日もありましょう」

  • 61.-66.

    弁慶再び静に向かい
    「心中お察しいたします
    この弁慶も泣けて来た
    悲しいところであるけれど
    殿の門出を祝うため
    一つ舞ってはくれまいか」

  • 67.-70.

    言われて静は立ち上がり
    そのまますぐに歌い出す
    「風がやんだら船は出ます
    行く先は波の向こうです」

  • 71.-74.

    「ここに烏帽子がございます
    これをお付けなさいませ」
    立っているのもつらいのに
    舞いつつ袖を振る静

  • 75.-79.

    「『おすがりなさい人々よ
    神がこの世にある限り』
    歌の文句の通りなら
    やがて良い日も来るでしょう
    船を出しませ船乗りさん」

  • 80.-85.

    せかれて遂に義経も
    旅立つ時がやってきた
    静は後を見送ると
    舞の衣装を脱ぎ捨てて
    あとはひとりで泣くばかり

  • 86.-96.

    「さあさあ船出」と船乗りは
    えいやと船を出したはよいが
    「この風向きは困ったぞ」
    思う間もなく不思議にも
    一天にわかにかき曇り
    六甲山から吹く嵐
    舳先をしのぐ高波に
    船は動きのとれぬまま

  • 97.-101.

    「嵐が来たぞ油断すな
    綱をおろせや苫を巻け」
    船乗りたちは必死だが
    波は全くおさまらず
    少しも陸に近づけぬ

  • 102.-105.

    世には不思議なことがある
    ふと海上に目をやると
    壇の浦の海の底
    沈んだはずの平家一門
    雲霞のようにびっしりと
    波に浮かんで現れた

  • 106.-112.

    「われこそは桓武の後胤
    平知盛の霊である
    珍らしや義経
    ここで会うとは思いも寄らず
    この知盛と同様に
    地獄の底に沈めてやろう」

  • 113.-116.

    大長刀を振りかざし
    悪風おこす知盛の霊
    まなこ眩んで心も乱れ
    前も後ろもわからない

  • 117.-120.

    その時義経少しも騒がず
    「たかが悪霊ではないか
    一体何ができよう」と
    刀を抜いて立ち向かう

  • 121.-128.

    「弓矢の通じる相手でない」と
    弁慶前に立ちふさがり
    数珠さらさらと揉みながら
    五大明王の名を唱え
    一心不乱に祈ったら
    さすがの悪霊かなわぬと
    次第に遠ざかってゆく

  • 129.-137.

    「今だものども浜めがけ
    力の限り船を漕げ」
    なお「逃さぬ」と怨霊は
    襲いかかるが弁慶は
    祈り続けて追い払う
    やがて引き潮悪霊の
    ゆくえは誰にもわからない

注釈

1. 浮きたつ雲の行方をや…謡曲『土蜘』冒頭に「浮き立つ雲の行くへをや、浮き立つ雲の行くへをや、風の心に任すらん」とある。3. 今はた我も…今となっては私も雲と同じように。4. 定めなき世の習いかな…謡曲『舟弁慶』に「雲水の身は定めなき習いかな」。5. 文治…年号。西暦1185~1190年。義経の都落ちは文治元(1185)年十一月であった。謡曲『舟弁慶』に「頃は文治の始めつかた」。6,1. 判官…源義経。判官(ホウガン、ハンガンとも)は検非違使大尉・少尉の異称。義経はかつて検非違使左衛門少尉に任ぜられたのでそう称せられた。6,2. 都を遠近の…「都を落ち」と「遠近(おちこち)」の懸詞。「遠近」は「あちらこちら」の意。謡曲『舟弁慶』に「判官都を遠近の、道狭くならぬそのさきに、西国の方へと心ざし」。7. 道狭くならぬ其先に…行動が不自由にならない以前に。8. 西国…近畿以西の地であるが、特に九州を指すことが多い。9. 淀…淀川。都と大坂湾を結ぶ水路であった。10. 浮寝鳥…水に浮いたまま寝ている水鳥。11. 夢なさましそ…夢を見ているままで、目を覚まさないでほしい。12. 人は何とも石清水…「何とも言はば言へ」と「石清水」の懸詞。石清水は八幡宮で有名だが、淀川を京都から大坂に下る場合、その途上にある。謡曲『舟弁慶』に「世の中の人は何とも石清水」。13. 澄み濁るをばしかすがに…「しかすがに」は「それでも」の意。謡曲『舟弁慶』に「澄み濁るをば神ぞ知るらん」。16. 高き御影を伏し拝み…「高き御影」は神の姿。謡曲『舟弁慶』に「高き御影を伏し拝み」。18. 入相…夕暮れ時。19. 空は一つに雲の波…謡曲『海人』に「空は一つに雲の波、煙の波を凌ぎつつ」とある。21,1. 津の国…摂津国。現在の大阪府の一部と兵庫県の一部。21,2. 尼が崎…現兵庫県尼崎市。22. 大物の浦…現尼崎市大物町。23. 弁慶…武蔵坊弁慶。義経の忠臣。24. 言葉を改め…礼儀正しい表現で。26. 静…静御前。義経の愛妾。大物浦での難船の折も義経に随従し、後に吉野山で義経と別れたとされる。謡曲『舟弁慶』に「まさしく静御前のこれまで御供にてありげに候」。27. 召具し…連れて。31. 本意なげに…残念そうに。35,1. 言甲斐なき者…言うほどの値打ちもないつまらない者。35,2. 讒…讒言。人を悪しざまに言っておとしめること。36. 落人となりて下る所に…謡曲『舟弁慶』に「思はずも落人となり落ち下るところに」。37. これまで参りし志し…謡曲『舟弁慶』に「これまで来る志返す返すも神妙なり」。41. 然るべからず思ふなり…よろしくないと思う。43. 時節を待てとぞ宣ひける…謡曲『舟弁慶』に「まづ此度は都へ帰りて時節を待ち候へ」。47. 御心変わりとな思召しそ…謡曲『舟弁慶』では弁慶の詞として「ただ人口を思しめすなり。御心変はるとな思しめしそ」とある。49. 行末千代とぞ菊の酒…「千代とぞ聞く」と「菊の酒」との懸詞。「菊の酒」は菊花を浸した酒で、長寿を願って飲んだ。謡曲『舟弁慶』に「行く末千代ぞと菊の杯」。50. 静にこそはすゝめけれ…謡曲『舟弁慶』に「静にこそは勧めけれ」。51. いや兎に角に数ならぬ…以下60.「君に再び逢はんとぞ思ふ」まで謡曲『舟弁慶』とほとんど同文。「数ならぬ」は物の数にも入らぬほど低い身分(の自分)の意。54. 静をとゞめ給ふか…この静をお止めになるのか。「波風も静か」と人名「静」の懸詞。55. 涙を流しゆうしでの…「ゆうしで」は「涙を流し言う」と「ゆふしで」の懸詞。「ゆふしで」は、神に祈りごとをする時に木綿(ゆふ)を榊の枝などにかけたもの。56. 神かけて…神に誓って。57. 契りし事も定めなや…無常なことに約束も守れなくなってしまった。58.-59. 実にや別れよりまさりて惜き命かな…別れを惜しむよりも自分の命を大切にしよう、そうすればまた逢う折があるかもしれない。64. さる事なれど…ごもっともなことだが。65. 旅の船路の首途の和歌…以下70.「波頭ノ謫所ハ日晴レテ看ユ」まで謡曲『舟弁慶』とほとんど同文。66. ただひとさし…一踊りおどってください。68. 時の調子もとりあへず…その時にふさわしい調子を合わせることもできず。69.-70. 渡口ノ郵船風静マッテ出ヅ、波頭ノ謫所ハ日晴レテ看ユ…小野篁が島流しになる時の詩句の一節で、『和漢朗詠集』所収。「渡口」は港、「郵船」は渡し船、「波頭ノ謫所」は波の向こうの流罪地。71. 烏帽子…成人男子が頭に装着するものだが、白拍子は烏帽子直垂の男装で踊るのを常とした。73.-74. 立舞ふべくもあらぬ身の袖うち振ふ悲しさよ…謡曲『舟弁慶』に「立ち舞ふべくもあらぬ身の、袖うち振るも恥づかしや」。「立舞ふべくもあらぬ身」は悲しさのあまり立って舞うことなどできないはずの身。75. なお頼め標茅が原のさしもぐさ…以下85.「見る目もいとゞ哀れなり」までの大部分が謡曲『舟弁慶』と同文。「なほ頼め標茅が原のさしも草われ世の中にあらん限りは」は清水観音の神詠として『新古今和歌集』などに伝えられる。「標茅が原」は下野国(栃木県)の歌枕、「さしも草」は蓬の異称だが、清水神詠ではそれぞれ俗世間・衆生を指す。77. 尊詠の偽りなくば…神のお詠みになったこの歌にいつわりがないのであれば。78. やがて御世に出船の…「世に出」と「出船」の懸詞。「世に出」は大手を振って世間を歩けるようになるの意。79,1. 船子…船乗り。79,2. はや纜をとくとくと…「纜を解く」と「疾く疾く」の懸詞。「纜を解く」は船を港に繋留している綱を解いて出航させること。「疾く疾く」は早く。83. 直垂…男性の常用服。71.「烏帽子」の注を参照。86. 急ぎ御船を出すべしと…謡曲『舟弁慶』に「急ぎお船をいだすべし」。87. 立ち騒ぎつゝ船子共…以下89.「つれて船をぞ出だしける」まで謡曲『舟弁慶』とほぼ同文。88. えいやえいやとゆう汐に…「ゆう汐」は「えいやえいやと言う」と「夕潮」の懸詞。90. あら笑止や…困ったことになった。91. 訝しや…あやしいことだ。92. あの武庫山…謡曲『舟弁慶』に「げにげにあの武庫山颪譲葉が岳より吹き下ろす嵐に」。武庫山は摂津国の山、現兵庫県六甲山の旧称。93. 弓弦羽が嶽…「譲葉岳」とも。六甲山の古称。94. 舳…船のへさき。96. おしもかへらぬ不覚さよ…波を押し返すことができない。97. 颶…激しい風。98. 苫…茅などを薄く平たく編んだもの。船の上部を覆うために用いた。99. 楫子…船の梶を操る船乗り。100. 恒沙…砂つぶ。102. 偖も不思議や海上を見れば…謡曲『舟弁慶』に「あら不思議や海上を見れば、西国にて滅びし平家の一門、おのおの浮かみ出でたるぞや」。104. 雲霞の如く…とても多くのものが集まっているさま。106. 抑も之は桓武天皇九代の後胤…謡曲『舟弁慶』に「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤平知盛幽霊なり」。桓武天皇は平安時代初期の天皇で、清盛を始めとする平家一族はその子孫に当たるので「桓武平氏」と称された。107. 平の知盛…清盛の四男。壇の浦合戦で平家の滅亡を見届けた後に入水した。『壇の浦』参照。108. あら珍らしや如何に義経…謡曲『舟弁慶』に「あら珍らしやいかに義経、思ひも寄らぬ浦波の」。110. 知盛が沈みし有様に…知盛が沈んだのと同じように。謡曲『舟弁慶』に「知盛が沈みしそのありさまに、また義経をも海に沈めんと」。112. 奈落の底…地獄の底。114. 潮を蹴立てゝ悪風を吹きかくれば…以下116.「前後を忘ずるばかりなり」まで謡曲『舟弁慶』とほぼ同文。117. 其時義経少しも騒がず…謡曲『舟弁慶』に「その時義経少しも騒がず」。119. そも何事のあるべきぞ…一体何ができようか。121. 弁慶あなやと押隔て…謡曲『舟弁慶』に「弁慶押し隔て、打ち物業にてかなふまじと、数珠さらさらと押し揉みて」。122. 打物業…刀などを使うこと。123. 舷…船の側方。125. 五大明王…密教で信奉する五つの明王。不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の五つ。謡曲『舟弁慶』では「東方降三世、南方軍荼利夜叉、西方大威徳、北方金剛夜叉明王、中央大聖不動明王の索にかけて祈り祈られ」と実際にそれぞれの名を挙げる。129. 弁慶こゝぞと力を合せ…謡曲『舟弁慶』に「弁慶舟子に力を合はせ、お舟を漕ぎ退け汀に寄すれば」。132. 猶怨霊は立ち現はれ…謡曲『舟弁慶』に「なほ怨霊は慕ひ来るを、追つ払ひ祈り退け」。135. 又引く汐にゆられゆられ…謡曲『舟弁慶』に「また引く潮に揺られ流れ」。136. あと白波とぞなりにける…「あと白波」は「跡しらず」と「白波」の懸詞。謡曲『舟弁慶』に「跡白波とぞなりにける」。

『大物海上月』(月岡芳年 画)

音楽ノート

本曲は、筑前琵琶の演奏会でよく取り上げられる演目である。本来は長い曲であるが、容易に15分に縮めることができる。短縮版では残念なことに、最も繊細で洗練された「静との別れ」の場面がカットされる場合が多い。義経、弁慶と静という三人の人物が登場し、役割に応じてすばやく声を変えて演じ分けるのが難しいためであろう。
この場面で最も美しいのは「鳳凰」と呼ばれる合いの手である。この合いの手は、本来、四弦琵琶のために作曲されたものであるが、その技法から、みやびやかな古代の香りが漂ってくる。弦は、ほぼすべてを上から下への動きで「ひく」。「近代」奏法のように弦を下から上への動きで「はじく」ことはない。「鳳凰」の合いの手を非常にゆっくり演奏すると、宮廷雅楽を思わせる優雅な世界が広がり、時代の風景が呼び起こされる。その後、2行にわたって(69~70行目)吟じられる詩吟にのせて、弁慶から手渡された烏帽子をつけた静が悲しみを抑えて別れの舞を舞う。

『舟弁慶』(前田青邨 画)

短縮版でも、瀬戸内の海の嵐の中、義経の船を襲う亡霊の最後は決して欠かすことのできない場面であり、筑前琵琶の演目全体における怨霊物のなかでも最も色彩豊かなものの一つである。また、世に知られた有名な演目にありがちなように、曲のヤマ場の奏法は一つと決まっていない。106行目の知盛の亡霊が波間から現れ、「抑も之は桓武天皇九代の後胤」と名乗る場面の歌い始めは二通りある。総譜では「七」という高い音程が要求されているが、歌い始めから高音にこだわるのは女性奏者のみである。暗い声をもつ男性奏者は少なくとも5度低い音から始め、行の最後に至るまでに、ゆっくりと音程を上げていく。そのほうが聞き手を身震いさせるほどの凄みをもたらすのである。