明治時代検索

BIWA LIBRARY

dainanko

大楠公

解説

鎌倉時代末期、後醍醐天皇(1288-1339)が倒幕を企図し兵を集めると諸国の武士がそれに応じた。楠木正成(?-1336)もその一人で、わずかな兵力で河内の千早・赤坂などに籠城し、幕府軍の攻撃をよくしのいで建武新政権の樹立に貢献した。この政権は足利尊氏(1305-1358)ら有力武士が離反したため挫折するが、その際も正成は後醍醐天皇方に属することを貫き、建武三(延元元)年五月二十五日(西暦1336年7月4日)、湊川の合戦で足利方に敗れて自害した。
もとより楠木正成は実在の人物であるが、おそらくその名は史実における活躍以上に喧伝されている。正成を描く代表的な文学作品は『太平記』であるが、そこには正成の、神出鬼没ともいうべき縦横無尽の軍略家ぶりと、そして終始一貫して後醍醐天皇に忠誠をつくした忠臣ぶりとがともに活写されている。『太平記』は広く一般に流布したが江戸時代にはそれに加えて、「太平記読み」あるいは「太平記評判」と称して『太平記』を軍学的に論評した講釈や書籍などが現れ、正成の軍略家としての側面が強調されることが多かった。ところがこれが明治時代以降になると、いわゆる皇国史観のもとで正成の忠臣としての側面が強調され、湊川神社が設立される、皇居前に正成像が建造される、など正成顕彰の動きがおきた。文芸作品も多くはその流れに添っており、本曲もそのような時代に生まれたものである。
なお作中で触れられている桜井の駅での正成正行父子の別離は、『太平記』に描かれる極めて著名な場面であり、これを題材とした落合直文作詩「桜井の訣別」もまた広く知られた。

参考文献

後藤丹治ほか校注『太平記』(日本古典文学大系) 岩波書店 1960~1962
佐藤和彦編『楠木正成のすべて』 新人物往来社 1989
兵藤裕己『太平記〈よみ〉の可能性』(講談社選書メチエ) 講談社 1995
海津一朗『楠木正成と悪党』(ちくま新書) 筑摩書房 1999
谷田博幸『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか』 河出書房新社 2019

あらすじ

天皇の忠臣である楠正成は、千早赤坂城にたてこもり、100万の北条軍勢と対峙した。知略を尽くして戦うこと半年に及び、ついに勝利した。それによって建武の中興が成り、世は治まったかに見えたが、しばらくしてまたもや不穏な空気が立ち上ってきた。延元元年、実権を握らんとたくらむ足利尊氏が総勢50万余を率いて筑紫より上ってきた。多勢に無勢のこの戦いに勝ち目はない。正成は最後の決戦と踏んで、都を後にした。その途次、桜井の駅で息子正行を傍らに呼び、こう言った。「この戦で父は命を落とすであろう。しかしお前は国許に帰り、一族郎党を育て、時機が来れば、必ず朝敵を討って父の思いを果たしてくれ」。さすがの剛の勇者も、無念の思いに袖を濡らすのであった。
やがて兵庫の湊川に着き、菊水の旗を翻して敵の攻め来るのを待った。時を経ずして陸から海から50万余の軍勢が雲霞のごとく現われ攻めて来る。血で血を洗うすさまじい戦いが続いたが、矢尽き、刀折れてもはや我が軍に形勢なしと見た正成は、手勢とともにとある民家に入った。「我は七度生まれ変わり、その都度、朝敵を滅ぼすであろう」と、永遠の忠義を誓いつつ、弟正季と互いに刺し違えるのであった。

『楠木正成』(狩野直信)

  • 詞章
  • 現代語訳
  1. ゆき しも
  2. ばい 花は咲きて を放ち
  3. 春の光を ぶるなり
  4. たい めっ する 乱世 らんせい
  5. 勤皇 きんのう いくさ 率先し
  6. 朝家 ちょうけ に身をば ジュン じたる
  7. 忠勇 れつ ひと こそは
  8. ユル がぬ 御代 ミヨ はしら なるらん
  9. サテ クスノキ 判官 はんがん しげ
  10. 孤城 ハヤ に百万の
  11. 北条勢を引寄せて
  12. ソン が智謀 かたむ けつ
  13. とし ばかり さゝ へしかば
  14. 忠臣 四方 よも に奮ひ
  15. 遂に朝敵を 討滅 とうめつ
  16. 皇天ために かゞや きしが
  17. 又もや 妖雲 ヨウウン 叢立 むらだ ちて
  18. 世は 騒然 そうぜん となりにけり
  19. 延元 エンゲン 元年 皐月 サツキ 中旬 なかば
  20. 足利尊氏 筑紫 ツクシ より
  21. 五十余万の大軍を率い
  22. 攻め上る ヨシ 聞えしかば
  23. 正成 勅諚 チョクジョウ かしこみつ
  24. 今日 きょう を最後と九重の
  25. 都を後に アズサ ユミ
  26. 引返さじと五百余騎
  27. 率いて兵庫に下り行く
  28. 青葉茂れる桜井の
  29. 里の カリ に駒 めて
  30. 嫡子 帯刀 タテワキ 正行 まさつら
  31. 膝元 ひざもと 近く招き寄せ
  32. 如何 イカ に正行聴き候へ
  33. 此度 コノタビ かっ 戦は
  34. 天下 あん わか れ目ぞ
  35. 父は兵庫に 討死 ウチジニ
  36. 覚悟定めて候へば
  37. 汝が顔を見ん事も
  38. 今日 きょう を限りと思ふなり
  39. 我れ のち は尊氏が
  40. ほしい まゝなる振舞に
  41. 日月 じつげつ 光り うしな ひて
  42. むぐら は八重に い茂り
  43. 世は 澆季 ギョウキ となりぬべし
  44. 此の 道理 ことわり わきま へて
  45. 故郷 ふるさと に帰り行き
  46. 一族 郎党 ロウトウ いく して
  47. 時機 とき の至るを ウカガ ひつ
  48. 金剛山 コンゴウサン に立て こも
  49. 誓って朝敵討ち滅ぼし
  50. 父が宿志を げよかし
  1. これ忠孝の道なるぞと
  2. 真心こめて サト しつゝ
  3. コレ イッ の別れかと
  4. 思へば たけ 武夫 もののふ
  5. こぼすや露の一と しづく
  6. 君がため散れと おし えて おのれ まづ
  7. 嵐に向ふ桜井の エキ
  8. 湊川原に着きければ
  9. 摩耶 マヤ 吹き オロ す朝風に
  10. 菊水の旗 ヒル がへし
  11. 敵や キタ れと待つ ほど
  12. 浪路 くが を打ち連ね
  13. 五十余万の足利勢
  14. 二つ 引両 びきりょう 四つ目
  15. 輪違 わちがい の旗へんぽんと
  16. ウン の如く押し立てゝ
  17. キン とうとう攻め寄する
  18. 正成きっと 打眺 ウチナガ
  19. いでや決死の 晴軍 ハレイクサ
  20. 目指すは尊氏 直義 タダヨシ
  21. ムラガ る敵の真只中に
  22. オモテ もふらず斬って入る
  23. 剣光きらめき トキ の声
  24. 忠魂義気の太刀風に
  25. こゝを先途と戦ひしが
  26. 衆寡 シュウカ 遂に敵し兼ね
  27. 流るゝ血汐は タキ
  28. 兜飛び去り鎧は
  29. 軍兵次第に討死し
  30. 残る七十三騎さへ
  31. ふか を負はぬ者もなし
  32. 最早 いくさ 之迄 コレマデ なりと
  33. と在る民家に走り入り
  34. 和田橋本 しん ぐう
  35. 宇佐美なんどの ムネ の武士と
  36. 鎧を脱ぎて端坐なし
  37. 刀は折れ矢はつきはてゝ
  38. シン が事既に おわ んぬ
  39. たび この世に生れ来て
  40. 唯朝敵を滅ぼさん
  41. 是ぞ最後の一念と
  42. 北に向って再拝し
  43. 正季 マサスエ と剌し違ひ
  44. ゆう こん ムナ しくなりにけり
  45. 嗚呼 アア 忠臣楠公の
  46. 玉と砕けし跡 へば
  47. ちぬの 浦曲 ウラワ に菊水の
  48. 流れも清き湊川
  49. たてし いさを は千代かけて
  50. 万代 よろづよ までも かお るらん
  51. 万代までも香るらん
  • 1.-3.

    冷たい雪の中でこそ
    咲いて香るは梅の花
    やがて春には光さす

  • 4.-8.

    大義なくした乱世に
    みかどのために戦って
    その身を捧げる忠義の士
    国の柱と言えるだろう

  • 9.-18.

    さても楠木正成は
    千早の城に百万の
    北条軍を引き寄せて
    軍略の限り尽くしつつ
    半年しのいでいるうちに
    四方の忠臣立ち上がり
    ついに幕府を打ち倒し
    そしてみかどの世となった
    しかし再び風雲急
    世が騒がしくなってくる

  • 19.-22.

    延元元年五月中
    足利尊氏九州より
    五十万の大軍率い
    攻めて来たとのことなので

  • 23.-27.

    正成みかどの命を受け
    これが最後と肚を決め
    京の都を後にして
    二度と戻らぬ五百余騎
    率いて兵庫へ行く途中

  • 28.-31.

    青葉の繁る桜井の
    里の仮屋に馬を止め
    わが子帯刀正行を
    膝元近く招き言う

  • 32.-38.

    「やあ正行よよく聞けよ
    そもそも今度の合戦は
    天下分け目の大いくさ
    父は兵庫で討死と
    覚悟を既に決めている
    お前の顔を見ることも
    今日が最後に違いない

  • 39.-43.

    私が死ねば足利が
    思いのままに振る舞って
    光は消えて藪の中
    再び乱世となるだろう

  • 44.-52.

    それをよくよくわきまえて
    ここは一旦故郷に帰り
    わが一党を温存し
    いざその時が来たならば
    金剛山に立て籠り
    必ず朝敵ほろぼして
    わたしの遺志を継いでくれ
    これこそまさに忠と孝」と
    心をこめて諭しながらも

  • 53.-58.

    これがこの世の別れかと
    思えばさすが楠木も
    こぼす涙のひとしずく
    「みかどのために散るのだ」と
    息子に教えみずからも
    嵐の中に向かうため
    桜井の駅を出立し
    湊川原にやがて着く

  • 59.-67.

    摩耶の山から吹く颪
    菊水の旗をひるがえし
    敵の来るのを待つうちに
    海路陸路の両方を
    五十万余の足利勢
    それぞれ家の旗を立て
    雲霞の如き大軍が
    鉦と太鼓を鳴らし来る

  • 68.-75.

    正成これをきっと見て
    「今日は決死の晴れいくさ
    目指すは尊氏直義のみ」と
    むらがる敵のただ中に
    わき目もふらず斬りこめば
    つるぎは光り太刀に風
    大いに勇んで戦ったが

  • 76.-81.

    悲しいことに多勢に無勢
    流れる血潮は滝のよう
    兜は飛んで鎧はちぎれ
    味方は次々討死し
    わずかに残る七十三騎も
    深手を負わぬ者がない

  • 82.-86.

    「もはやいくさもこれまで」と
    近在の家に駆け込んで
    和田に橋本・神宮寺
    宇佐美その他の武者たちと
    鎧を脱いで座を正し

  • 87.-94.

    「刀は折れて矢は尽きた
    もうできることは何もない
    しかし七度生まれかわり
    必ず朝敵をほろぼそう
    これこそが最後の思い」と
    北に向かって拝んだ後
    弟正季と剌しちがえ
    ついに空しくなる魂

  • 95.-101.

    ああ忠臣の楠公が
    玉と砕けたその跡は
    なにわの海に流れ込む
    流れも清い湊川
    その勲功はいつまでも
    いついつまでもかんばしい

注釈

5. 勤皇…皇室を崇拝すること。6. 朝家…朝廷。9. 楠判官正成…建武新政の論功行賞で正成は検非違使兼左衛門少尉に任ぜられた。判官はその通称で、ハンガンともホウガンとも読む。『太平記』では、後醍醐天皇が木の枝が南に伸びている霊夢を見て、「木」と「南」を合わせた「楠」という武士を探させたところ正成がいたので召し寄せた、とされている。10. 千早…河内の地名。現大阪府南河内郡千早赤阪村。正成の本拠地。11. 北条勢…鎌倉幕府軍。12. 孫呉…『孫子』と『呉子』。ともに古代中国の兵法書。13. 支へしかば…持ちこたえたので。15. 朝敵…朝廷の敵。16. 皇天…皇室の威光。19. 延元元年…西暦1336年。20,1. 足利尊氏…初め後醍醐天皇に従って倒幕軍に加わったが後に離反した。湊川の合戦で楠木正成らと戦い勝利を収める。20,2. 筑紫…九州北部の古称。尊氏は後醍醐天皇に離反した後、一旦は合戦に敗れて九州に下っていた。23. 勅諚…天皇の命令。24. 今日を最後と九重の…「最後と心得」と「九重」の懸詞。「九重」は宮中。25. 梓弓…「引き」にかかる枕詞。27. 兵庫…摂津の地名。現兵庫県神戸市。28. 桜井…摂津の地名。現大阪府三島郡島本町。29. 仮屋…仮にたてた簡素な小屋。30. 帯刀正行…楠木正行(?-1348)。「帯刀」は官名。正成の子。『太平記』ではこの時十一歳。34. 天下安危の岐れ目…天下が安定するか乱世が続くかの分かれ目。41. 日月光り失ひて…道義が失わて。42. 葎…雑草。43. 澆季…乱れた世。末世。48. 金剛山…大和(現奈良県)と河内(現大阪府南部)の境界にある山。51. 忠孝の道…天皇への忠義と父への孝養を両立させる道。53. 一世の別れ…今生の別れ。「一世」はこの世。57. 嵐に向ふ…逆境に立ち向かうことの比喩的表現。58. 湊川原…湊川の河原。湊川は現在の神戸市内を流れ、大阪湾にそそぐ。59. 摩耶…六甲山地(現神戸市)に属する山の名。60. 菊水…楠木家の家紋。菊と流水をあわせた図柄。64,1. 二つ引両…足利家の家紋。円の中に二本の横線が通っている図柄。『太平記』に「二つ引両・四目結ひ・すじ違ひ・左巴・倚せかかりの輪違ひの旗、五六百流れ差し連れて、雲霞の如く寄せ懸けたり」。64, 2. 四つ目結ひ…近江佐々木家の家紋。65,1. 輪違…足利家の臣高家の家紋。65,2. へんぽん…翩翻。旗が風にひるがえるさま。66.雲霞の如く…軍勢の数がとても多いさま。67. 金鼓とうとう…鉦や太鼓をとうとうと打ち鳴らしながら。70. 直義…足利尊氏の弟。72. 面もふらず…振り向きもせずに。75. こゝを先途と…勇敢に戦うさま。76.衆寡…軍勢の多いのと少ないのと。77. 滝津瀬…流れの激しい滝。80.残る七十三騎…『太平記』に「その勢次第次第に滅びて、後はわづかに七十三騎にぞなりにける」とある。84. 和田・橋本・神宮寺…和田五郎正隆・橋本八郎正員・神宮寺太郎兵衛正師。いずれも正成の一族または郎党で、『太平記』に拠れば正成とともに切腹した。85,1. 宇佐美…宇佐美河内守正安。同上。85,2. 宗徒の…主立った。86.端坐…礼儀正しく座ること。88. 臣…自称。89. 七度この世に生れ来て…『太平記』では正成でなく弟正季が、正成に最期の存念を問われて「七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と述べる。明治以降これがやや変形し、正成が「七生報国」を誓ったとされることが多い。93. 正季…正成の弟。95.嗚呼忠臣楠公の…元禄五(1692)年、水戸光圀は湊川戦場跡に正成を顕彰するための石碑を建てさせた。その碑面に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻されている。97. ちぬ…現在の大阪湾の東南部。

『楠木正成』(狩野直信)

音楽ノート

本曲は、戦後あまり演奏されることはなかったが、筑前琵琶橘会の宗匠であった明治生まれの山崎旭萃師には思い入れのある曲であったという。どういうわけか最近再び脚光を浴びるようになり演奏会で取り上げられることが多い。
本曲はわずか100行あまりのこぢんまりした曲である。楠正成(大楠公)は明治維新以降、忠臣として再評価されるようになった。そのため、全編を通じて歌われるのが正成の忠義や武士魂であるが、音楽的にもその配慮がみられる。たとえば7行目の、武士への賛辞である「義烈」という語の3拍の韻は、調性から外れた力強い声で発声される。
また、次の行の「揺がぬ御代の柱」という句も華麗な節回しで歌われるが、それが正成であることが明かされるのは、その後の9行目である。こうした華やかな旋律は普通、主人公が登場する導入部で挿入されるものではないのである。
正成が桜井の駅で息子を呼んで、天皇への忠義を説くという有名な場面では、二つの豊かな旋律を持つ「夏流し」と「春流し」(25~29行目)といわれる詠唱が歌われる。このような流しの連続もかなり稀なことである。

千早城址の碑(大阪府)

この穏やかな父子の会話の場面ののち、戦場の場面へと移る。25~29行目の2つの流しにおいて瞬間的に高音域の音が挿入されるが、58行目で初めて一行全体が朗詠で用いられる最高音の「七」で語られる。このような作曲技法上の取り決めによって、語りの部分の筋書きにはっきりとした変化が生まれているのである。
また合いの手の選択は念入りに吟味され、その配列も慎重に考えられているのがはっきりと見て取れる。戦の場面の描写に最も適した合いの手は「丁」という名を持つ一連の間奏部である。本曲では、「丁の二」(67行目の後)の後に「丁の三」(72行目の後)が続き、さらに数行後に「丁の四」(75行目の後)が続くが、これは他にはほとんど見られない構成である。
95行目の冒頭で感情は最高潮に達する。この行は「嗚呼」という感嘆で始まり、「忠臣楠公の」と続くが、この語句は実は、1692年に建てられた楠正成の顕彰碑の銘からの引用である。これは天皇に深い忠誠心を抱く日本人すべてにとって、正成の魂の神髄を感じさせるものである。そのため山崎旭萃師はそれを安易に歌唱で表現することに満足しなかった。歌い手に要求したのは、音楽を超えた祈りを狙って、体の奥深くから出るような「嗚呼」で始めることであった。「嗚呼」の節回しが「歌唱の旋律」のごとく演奏されたのでは、大楠公への深い畏敬の念を表現するには不十分だというのであった。