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茨木

解説

『羅生門』の後日譚。謡曲『羅生門』は渡辺綱が鬼の片腕を切り落としたところで終わるが、屋代本『平家物語』剣巻や江戸時代に成立した『前太平記』ではその後に、鬼が綱の伯母に化けて腕を取り返しに来るという展開が続く。明治になってこの後日の部分を採り上げた長唄『綱館(渡辺綱館之段)』(明治二年)や河竹黙阿弥(1816-1893)作の歌舞伎舞踊『茨木』(明治十六年)などが作られ、広く流布した。なお、筑前琵琶「旭会」では『綱館』の名でよばれている。
本曲を作詞した大坪草二郎(1900-1954)は本名市助、号潮声。福岡県出身の歌人で、『アララギ』に参加し島木赤彦に師事した。二六新報の記者となり、『琵琶新聞』を発行していた椎橋松亭と知り合って、多数の琵琶曲を作詞した。また琵琶の評論活動も行っており、著書に『筑前琵琶物語 初代橘旭翁伝』(1929年刊)がある。昭和二十九年十一月二十五日、五十四歳で没した。

参考文献

大坪草二郎『筑前琵琶物語 初代橘旭翁伝』 葦真文社 1983
板垣俊一校訂『前太平記』(叢書江戸文庫) 国書刊行会 1988~1989
麻原美子ほか編『屋代本高野本対照 平家物語』 新典社 1990~1993
浅川玉兎『長唄名曲要説』 2001(改訂初版)
志村有弘『羅城門の怪』(角川選書) 角川書店 2004
『伝統芸能シリーズ 日本舞踊曲集成 歌舞伎舞踊編』(別冊演劇界) 演劇出版社 2004

あらすじ

渡辺源次綱は京の羅生門で、鬼神の腕を切り取るという武勇をなし、天下にその勇名をとどろかせていた。が、鬼は七日のうちに、かならず悪事をなすものだという阿部晴明の占いの結果を信じ、綱は密かに物忌みをしていた。七日が経ち、忌明けの日を迎える夜半、綱の伯母と名乗る老婆が忽然と現れて門を叩いた。初め拒んでいた綱であったが、老婆の涙にしかたなく中へ招じ入れた。老婆は綱の武勇を褒め、件の鬼の腕を見たいと懇願した。綱は断りきれずその腕を見せたところ、老婆は見る見るうちに鬼に変身しその腕を掴んで空へ逃げていった。実は茨木童子という鬼であり、おろかな綱をあざける声に綱は地団駄を踏んで悔しがるのであった。

『大日本史略図会』(安達吟光 画)

  • 詞章
  • 現代語訳
  1. 都大路の は更けて
  2. くさ も眠る 丑満 うしみつ
  3. 静けさ破る鐘の おと
  4. いん コモ りて響くなり
  5. さても渡辺の げん 綱は
  6. 都の九条 羅生門 ラショウモン にて
  7. シン かいな を切り取りて
  8. 武名天下にあげけるが
  9. かゝる あっ は七日の内に
  10. 必ず仇をなすなりと
  11. 阿部の せい めい かん もん により
  12. 綱はひそかに 物忌 ものいみ して
  13. 仁王 にんのう きょう 読誦 どくじゅ なし
  14. もん ぢてぞゐたりける
  15. 既に今宵は七日目の
  16. いみ あけ となりぬれば
  17. ものにこらへぬ剛勇の
  18. 綱はいさゝか み心地
  19. あら気づまりの物忌やと
  20. 所在 ショザイ なげにぞ見えにける
  21. 村雨 ムラサメ の降り過ぎて
  22. ひそけさまさる ちまた
  23. 月はおぼろに白絹の
  24. 打掛 うちかけ 着たる一 の老婆
  25. いづくともなく現れて
  26. かど ほとほとと打叩く
  27. 聞くより綱はいぶかしみ
  28. かゝる夜更にわが かど
  29. おとづれ給ふは 何人 なにびと
  30. これは津の国渡辺の里より
  31. はるばる訪ね来りたる
  32. 殿 ドノ が伯母に候よ
  33. 此の もん ひらき給へやと
  34. 言はれて綱は声高く
  35. 仔細あって物 いみ なれば
  36. もん の内へは叶はず候
  37. 今宵あけなば対面せん
  38. ひとまづ おん 帰り候へと
  39. いと 本意 ほい なげにぞ答へけり
  40. あら きょく もなや
  41. ふるさと遠く老の身の
  42. 杖を力に 辿 たど りつゝ
  43. ヨウヤ くこゝにつきの弓
  44. ふた にたわむ姿をも
  45. しと思はで来りしを
  46. つれなく去れと申すかや
  47. そも和殿が おさな き頃
  1. 伯母がみづから いだ きやり
  2. 暑さ寒さをしのがせて
  3. 育てあげたる大恩を
  4. 忘れ果てしか情なや
  5. 邪見 ジャケン の者よと 口説 クド きつゝ
  6. 声をあげてぞ泣きにける
  7. さしもに たけ き渡辺も
  8. 伯母の嘆きにほだされて
  9. 是非なく もん を押開き
  10. 奥の一間に しょう じ入れ
  11. 厚くもてなす其内に
  12. 伯母は形を改めて
  13. いかに綱
  14. この程和殿が羅生門にて
  15. 鬼神の かいな を切り取りし
  16. 武勇は天下にかくれなし
  17. して其の かいな はいづこにありや
  18. 一と目なりとも見せ候へと
  19. 乞はれて綱はひとたびは
  20. 固く断り申せしが
  21. たっての望みに否みかね
  22. すなわち之にて候と
  23. から びつ ふた 押し開き
  24. 伯母の前にぞ なお しける
  25. 其時伯母はかの うで
  26. ためつすがめつしげしげと
  27. 眺め眺めてゐたりしが
  28. 怪しやな
  29. 次第次第に めん しょく かはり
  30. つッと かいな を取るよと見えしが
  31. 忽ち鬼神の姿となり
  32. 風を起して飛び立ちさま
  33. ふう を蹴破り逃げんとす
  34. おろかや綱
  35. 吾こそ茨木童子なり
  36. わが うで を取返さんため
  37. これまで来ると知らざるか
  38. あら笑止やと叫ぶ声
  39. くう に響きて物凄し
  40. 綱は怒って足ずりなし
  41. 計られつるか無念やと
  42. 太刀抜き放ち追ひすがり
  43. 斬らんとすれど時すでに
  44. 鬼神は早も虚空にあり
  45. あたりは 黒雲 くろくも 巻き起り
  46. 姿はつひに消え失せけり
  47. 姿はつひに消え失せけり
  • 1.-5.

    都大路の夜は更け
    皆、寝静まった真夜中に
    鐘の音、不気味に鳴り渡る。

  • 6.-14.

    さて、渡辺の源次綱が
    羅生門にて鬼神の
    腕を斬ったとの噂
    武勇伝と称えられる。
    しかし執念深い鬼神は
    七日のうちに現れて
    きっと敵を討ちに来る。
    阿部清明の忠告に
    綱は密かに家に籠もり
    仁王経読み息ひそめる。

  • 15.-26.

    そうこうするうち時が経ち、
    物忌最後の夜がきた。
    我慢強い綱なれど
    いささか退屈、もてあまし
    早く明日が来ぬものか。
    雨の上がった街並みに
    静かに月の影がさす。
    いつのまにやら、どこからか
    白衣の老婆現れて、
    門をとんとん叩いていた。

  • 27.-39.

    こんな夜更けに誰だろう。
    不審に思ってたずねると
    「私は摂津は渡辺の
    里より来ました伯母ですよ。
    門を開いてくだされな」
    言われて綱は大声で
    「事情があって今晩は
    門を開けることできませぬ。
    夜が明けたら会いましょう。
    ひとまずお帰りください」と
    残念そうに返答した。

  • 40.-46.

    「ああ、なんと冷たいお言葉よ。
    古里遠くはるばると
    腰のまがったこの老体
    奮い立たせて杖をつき
    都を目指してまいったに。
    かわいそうとも思わずに
    つれなく帰れと言われるか。

  • 47.-58.

    そもそも御身の幼いころ
    私がこの手で抱き上げて
    後生大事と育てたこと、
    忘れ果てたとは情けない。
    恩知らず者よ」と
    泣きじゃくる。
    さすがの綱もこれを聞き
    やむなく門を押し開き
    伯母を家内に招き入れ、
    手厚くもてなすそのうちに

  • 59.-71.

    伯母は居住まい改めて
    「さてさて、綱よ。あの噂、
    御身がこのほど鬼神の
    腕を斬ったという話、
    天下の武勇と響いている。
    その腕、どこにあるのです。
    見せてくだされ、一目でも」
    綱はひとたび拒んだが
    伯母のたっての願いとて
    「さあ、ここにあります」と
    唐櫃の蓋、押し開けて
    伯母の前に差し出した。

  • 72.-80.

    伯母はその腕、しげしげと
    ためつすがめつ眺めてる。
    怪しいことにそのうちに
    形相次第に変わりゆき、
    腕をとったその瞬間、
    たちまち鬼神に様変わり。
    風を起こして飛び立って
    屋根抜け逃げていくところ。

  • 81.-94.

    「愚かな綱よ、われこそは
    茨木童子よ、我が腕を
    取り返そうとここへまで
    来たのを知らぬか、おもしろや」
    空に響いた鬼の声。
    綱は怒りに打ち震え
    地団駄踏んで悔しがる。
    まんまと罠にかかったか、
    残念無念と太刀を抜き
    斬ろうとしたが鬼神は
    とうに姿は雲の中
    空のかなたに消えていく。

注釈

2. 丑満…午前2時頃。「草木も眠る丑満」は慣用句。4. 陰に籠りて…陰気な感じがして。5. 渡辺源次綱…頼光四天王の一。「源次」は通称。6. 九条羅生門…九条通りにある羅生門。9. かゝる悪鬼は七日の内に…長唄『綱館』に「かかる悪鬼は七日の内に、必ず仇をなすなりと、陰陽の博士、晴明が勘文に任せつつ」。10. 仇をなす…報復する。11,1. 阿部の晴明…平安時代の陰陽師。「阿部」は「安倍」とも。実在の人物であるが、むしろ文学作品中において超人的能力を発揮して活躍することで知られる。11,2. 勘文…陰陽師が吉凶を占った報告書。12. 物忌…凶事を避けるため外出せずにいること。13. 仁王経…仁王般若経。法華経・金光明経とともに護国三部経の一つ。災厄を除き福徳を招くための経典として尊重された。長唄『綱館』に「仁王経を読誦なし、門戸を閉ぢてぞゐたりける」。16. 忌明…物忌みの期間が終わること。物忌み等は七日を一区切りとする慣習があった。17. ものにこらへぬ…我慢のできない。19. あら気づまりの物忌や…長唄『綱館』に「あら気詰まりの物忌みやな」。20. 所在なげに…することがなく退屈そうに。21. 一と村雨の降り過ぎて…にわか雨もやんで。22. ひそけさまさる…静まりかえった。23. 月はおぼろに…月の霞んださま。24. 打掛…婦人の礼服。上着の上から打ち掛けて着る。27. いぶかしみ…不審に思い。30,1. 津の国…摂津国。現在の大阪府北部と兵庫県南部。30,2. 渡辺…現大阪市北区。綱はこの地名にちなんで渡辺氏を称したとされている。32. 和殿…そなた。35. 仔細…事情。長唄『綱館』に「仔細あつて物忌みなれば、門の内へはかなはず候」。36. 門の内へは叶はず候…門内に入ることはできません。37. 今宵あけなば…夜が明けたら。39. 本意なげに…残念そうに。40. 曲もなや…愛想のないことだ。長唄『綱館』に「あら曲もなき御事やな」。43. こゝにつきの弓…「ここに着き」と「槻の弓」の懸詞。「槻」はケヤキの古名で弓の材料として用いられた。44. 二重にたわむ姿…腰が曲がっているさま。45. 憂しと思はで…自分の姿をみっともないとも思わずに。47. そも和殿が幼き頃…長唄『綱館』に「和殿が幼き其時は、みづから抱き育てつつ、九夏三伏の暑き日は、扇の風にて凌がせつ、玄冬素雪の寒き夜は、衾を重ね暖めて」。52. 邪見…無慈悲で残忍なこと。長唄『綱館』に「エエ汝は邪慳者かな」。53. 口説き…心の内を言い立て。54. さしもに猛き渡辺も…長唄『綱館』に「さしもに猛き渡辺も、飽くまで伯母に口説かれて、是非なく門を押開き、奥の一間に請じける」。55. ほだされて…哀れな様子に心を動かされて。57. 請じ入れ…招き入れ。59. 形を改めて…居ずまいを正し。60. いかに綱…長唄『綱館』に「いやとよ綱、鬼神の腕を切り取られし武勇のほど、凡そ天下に隠れなし。して其腕はいづれにありや」。69. すなわち之にて候…長唄『綱館』に「即ち是にと唐櫃の、蓋打ち明けて、伯母の前にぞ直しける」。70. 唐櫃…中国風の箱。72. 其時伯母は…長唄『綱館』に「其時伯母は彼の腕を、ためつすがめつしげしげと、眺め眺めて居たりしが、次第次第に面色変はり」。73. ためつすがめつ…凝視するさま。77. つッと腕をとるよと見えしが…長唄『綱館』に「彼の腕を、取るよと見えしが忽ちに、鬼神となつて飛び上がり、破風を蹴破り現れいで」。79. 飛び立ちさま…飛び立つやいなや。80.破風…屋根の下にある三角形の板。82. 茨木童子…鬼の名。長唄『綱館』に「いかに綱、我こそ茨木童子なり」。83. わが腕を取返さんため…長唄『綱館』に「我が腕を取り返さん其為に、是迄来ると知らざるや」。86,1. 虚空…空。86,2. 物凄し…不気味な感じがする。87. 足ずり…悔しがって地団駄を踏むこと。

綱坂(東京都にある坂で、渡辺綱がこの付近で生まれたという伝説がある)

音楽ノート

本曲は筑前琵琶「橘会」の初代家元橘旭宗の晩年の作である。橘旭宗は、故山崎旭萃氏の師であったが、旭萃師は家元にとって模範的な演奏者であった。そのため、優れた才能と声質に恵まれた旭萃師によって演奏されることを念頭にこの曲を作ったのである。
旭萃師の声は、師みずから自嘲的に「錆びついた声」と評していたように、暗い声であった。本曲が抒情的な「歌」(歌謡)とは反対の「語り」に重点を置いて作られているのもこうした理由からであろう。「語り」と「歌」は、浄瑠璃や地唄のような邦楽における声楽の二つの伝統的なカテゴリーであるが、ジャンルによってその区別をどう考えるかは演奏者次第である。
本曲で「語り」形式が強調されているとする理由として、抒情的な「歌」である「流し」がまったく見られないことがある。華やかな節回しを採り入れなかったため、琵琶という楽器の演奏効果に表情豊かな表現を担わせることとなった。通常の琵琶曲の語りの構造は、詞章を歌う行と「合いの手」とが交互に現れるものであり、弾奏と吟唱とが同時に演奏されるのは「流し」においてのみである。

正明寺(渡辺綱の鬼退治伝説が残る)

歌われる詞章が琵琶の伴奏で下支えされる別の形式はいわゆる「オクリ」である。これは、一の糸と三の糸とをドン-デレ-ドン-デレと交互に弾いて、一行か二行の表情豊かな詞章にリズムの背景をつけるのである。しかし本曲においては、そうした吟唱と伴奏が同時に演奏される部分は7行にもおよぶ(74~80行目)。それによって鬼が切断された腕をじっと眺め、それをつかんで屋根を突き抜けて逃げてゆく一部始終の雰囲気が高まっていくのである。次第に高まっていく「オクリ」の流れは78~79行目の間の劇的な「合いの手」へとつながる。しかし「合いの手」が終わるとふたたび「オクリ」が80行目の下に現れ、終結部の行が終わると、最後には「丁の二」という「合いの手」の華やかな弾奏へとなだれ込んで曲は終わる。