-
夫 れ良 禽 は林を撰 み -
賢者 は君を撰むとかや -
されど一
旦 身を許し -
主 と頼みし人の為 め -
善悪 共に身を棄てゝ -
桀 狗 が尭 に吠 ゆるなる -
忠義をなすも
武士 の - 弓矢の意地と知られけり
-
茲 に明智日向 守 光秀は -
天
王 山の一戦に - 味方
脆 くも打敗れ -
同勢 四方 に散乱すと -
はや
隠 れなく聞 えけり -
安 土 の城 の留守居なる -
明智
左馬介 光 俊 は -
君の先途の
覚束 なく -
軍 の様子見んものと -
急げば
廻 る瀬田の橋 -
敵に
粟 津 の原越へて -
揉 みに揉んでぞ打 出 の浜 -
大津の
宿 にかゝる頃 -
ハッタと
出 逢 ひし大 軍は -
堀
久 太郎秀政が一万騎 -
やおれ秀政
来 りしか - 天王山を取り切りし
-
武略は
流石 の敵なるぞ -
いざ光俊が一
期 の名残 -
語りつがせん
者共 と -
味方の勇気
励 まして - どっとばかりに突きかゝり
-
巴卍 に切り靡 け -
西に東に
出 没 し -
鬼 神 不思議の働 きに - さしもの大軍もてあまし
-
浮足立ちし
潮合 を -
こゝと見て取る
一 呼 吸 -
サッとばかりに乗り
脱 けて -
一 と息 呑 みし掛声 に -
馬は
忽 ち飛ぶ如 く -
名に負ふ
近江 の湖 に -
ザンブとばかり
躍 り入る -
馬は天下の
逸物 なり -
騎 手 は固 より古 今 の達者 -
真 一 文 字 に乗切る様は - 神か人かと見るばかり
- 水や空空や水
-
眼 の限り一碧 の -
波を蹴立つる
大 鹿 毛 に -
緋縅 着たる左馬介 -
一 と際 目に立つ武 者 振 に -
無双の名人
永 徳 が -
丹精 こめて画 きたる -
墨絵の
龍 の陣羽織 -
比叡 山 颪 に翻 へし
-
或 は緩 に又急に -
揚鞭揮 ふ勇ましさ -
馬
疲 るれば人助け -
人疲るれば馬に
頼 り -
さしもに広き
湖 を - 事ともせざる不敵さに
-
追 手 の勢 も気を取られ -
酔 ひるが如き心地して -
あれよあれよと
云 ふばかり -
たゞ一筋の
遠 矢 だに - 射かけん人もなかりけり
-
光俊やがて
唐崎 の -
浜 の此方 に打ち上り -
馬
物 の具 の水走らせ -
愛馬の
鬣 撫 で上げて -
如何 に大鹿毛承 はれ -
光俊多年武勇の
誉 -
半 は汝が勲功 ぞ - かゝる名馬を光俊が
- 命と共に殺さんは
- いといと惜しき心地ぞする
-
天晴 汝は長生 へて -
武勇
勝 れし主 を取り -
修 羅 の巷 を走 せめぐり - 流石は明智が馬なりと
-
我が武名をも
後 の世の - 武辺の語りに残せかし
- やよ大鹿毛よ心得しかと
-
真 心こめて言ひ聞かせ -
十王堂の
柱 につなぎ -
やがて
墨斗 を取り出 し -
香 の包を押し開き - 天正十年六月十四日
- 明智左馬介光俊
-
この馬を
以 て湖水を渡る者也と -
筆
太々 と書き遺 し - いざとばかりに立去れば
- 馬も名残を惜みてか
-
声も哀れに
嘶 くを -
見返り
勝 に静々と - 坂本城に引揚げし
-
心の
中 や如何 ならん -
哀れ
桔梗 の花枯れて -
五 三 の桐の世となれど - 此の大鹿毛は秀吉に
- 日本一の名馬ぞと
-
いと
珍 重 に召されたり -
旧 主 の名さへ武勇さへ -
花と
称 へて幾千代も -
朽 ちせぬ誉 今の世に - 比良の山より猶高く
-
琵琶の湖琵琶の
音 に -
留 めて語るこそ目出度 けれ - 留めて語るこそ目出度けれ
-
1.-8.
かしこい鳥は木を選び
かしこい者は主君を選ぶ
しかし一旦主君と決めた
人のためなら善でも悪でも
わが身を捨てて忠義を尽くす
武士の意地とはそういうもの -
9.-13.
明智日向守光秀は
天王山の合戦で
敗れて味方も散り散りに
なったと早くも知れわたる -
14.-20.
安土の城の留守居役
明智左馬介光俊は
殿のゆくすえ心配で
いくさの様子を見るために
すぐに渡った瀬田の橋
敵に会わずに粟津の原
急いでうち出る打出の浜 -
21.-28.
大津の町についた時
ばったり会った大軍は
堀秀政の一万騎
「やあ秀政かよく来たな
天王山を攻め取ったのは
敵ながらもあっぱれだ
さあ光俊もこれが最後
様子を後に語り継げ」と -
29.-35.
味方を励まし攻めかかり
四方八方走り回り
東に現れ西に消え
神出鬼没のいくさぶり
敵の大軍困り果て
浮足立ったその瞬間 -
36.-41.
今こそ好機と見て取って
敵勢の横をすり抜けて
ひとこえ気合を入れたなら
馬はあたかも空飛ぶように
人に知られた近江の琵琶湖
ザンブとばかり飛び込んだ -
42.-49.
馬は名馬 乗り手も名人
まっすぐ進むそのさまは
神かと見間違えるほど
水か空かも見分けがつかぬ
見渡す限りの水平線
青波立てて進む大鹿毛
赤い鎧の左馬介 -
50.-56.
ひときわ目立つ武者振に
名人狩野永徳の
墨絵の竜の陣羽織
比叡おろしにひるがえる
あるいはゆっくりあるいは速く
見事な鞭の振るいよう
-
57.-65.
馬と人とが助け合い
広い琵琶湖を苦にもせず
渡ってしまう大胆不敵
追手もこれに気を取られ
あたかも酒に酔ったよう
あれよあれよと言うだけで
矢を射ることもままならぬ -
66.-69.
光俊ついに唐崎の
浜のこちらに駆け上がり
馬から馬具から水を流し
そのたてがみを撫でて言う -
70.-75.
「さあ大鹿毛よよく聞けよ
わが長年のいくさ働き
その半分はお前の手柄
これほどすぐれた馬なのに
わたしとともに死なすのは
とても残念しのびない -
76.-84.
お前は生き延びこののちも
武勇にすぐれた主を乗せ
合戦場を駆け回り
さすがは明智左馬介
馬まで立派と後の世に
この名を伝えてもらいたい
どうだ大鹿毛わかったか」と
真心こめて言い聞かせ
十王堂の柱につなぎ -
85.-91.
やがて矢立を取り出して
香を包んだ紙を開き
「天正十年六月十四日
明智左馬介光俊
この馬で湖水を渡る」と
墨も黒々と書き残し
さあとばかりに立ち去ると -
92.-96.
馬も名残が惜しいのか
あわれな声でいなないた
それを見返る左馬介
坂本城に引き揚げる
心のうちはどうであろう -
97.-101.
明智の桔梗は枯れはてて
五三の桐の豊臣の
世にはなったが大鹿毛は
その秀吉の目にとまり
日本一とほめられた -
102.-108.
昔の主とその名誉
ほめたたえていつまでも
消えぬほまれは今もなお
比良の山より高くそびえ
琵琶湖にひびく琵琶の音
語り伝えるすばらしさ