-
武夫 の -
有 為 転 変 を観 ずれば -
夢
幻 の如くにて -
夢よりも尚
儚 なけれ -
偖 も熊谷 ノ次郎直 実 は -
一の谷の
合 戦に -
天晴 手 柄 立てんずと -
味方の
勢 に魁 けて - 我が子小次郎直家と
-
外 に郎党一人 を具 し -
駒を
速 めて唯三騎 - 須磨の浦にぞ着きにける
-
頃は
元暦 元年如月 の -
春まだ浅き
六日 の夜 - 月更け渡る城の内
-
楯 を褥 に平家方 -
只
寂 として声もなく -
聞 ゆるものは夜もすがら -
磯打つ浪の
音 ばかり - 直実駒を静々と
-
渚 の方 へ歩ませて -
暫 し休 らふ折しもあれ -
遥 に城の彼方 より -
誰 が吹く笛か呉竹 の -
節 いと妙 に聞ゆなり -
玲瓏 高く冴 ゆる音 は -
月に
男 鹿 の啼く声か -
深 空 を渡る雁 がねか -
磯馴松 の風に和し -
哀れを誘ふ
調 べなり - 直実耳をそば立てゝ
-
恍 然 としてゐたりしが - さても平家の人々は
-
明日 をも知れぬ命 をば -
雅 心 や笛 竹 に -
吹き澄ましたる
床 しさよと - いたく感にぞうたれける
-
かゝりし
暇 に月影も -
西山 の端 に傾 きて -
夜 はほのぼのと明石潟 -
沖の浪間の
漁火 も - いつしか消えて朝風に
-
赤旗
白旗 入り乱れ -
源平互に
鬨 を揚げ -
こゝを
先 途 と戦ひしが - 遂に平家は打敗れ
-
海を
遥 に退 きける -
去程 に無官ノ太夫敦盛 は -
萌黄縅 の鎧 着て -
連 銭 葦 毛 の駒に乗り -
御供 仕 ふ者もなく - 味方に遅れ唯一騎
-
沖なる船へと
志 し -
落ち行き給ふ
処 をば -
直実遥に
之 を見て -
軍扇あげて
差招 き -
如何 に平家の御 大将 -
御 船 は遠く隔 たれり -
よも
逃 れさせ給ふまじ - 返させ給へ直実が
-
見参 せんと呼はったり - 弓矢の道の習ひとて
- 敵が呼ぶ声聞きながら
- たとへ落延びたらばとて
-
武門の
恥 と敦盛は -
矢 庭 に駒を立て直し -
直実目がけて
斬 りかゝる -
暫 し鎬 を削 りしが -
打物 すてゝ無手 と組み -
浪うち
際 にどうと落つ - 上を下へと返せしが
- 豪勇無双の直実は
- 難なく敦盛を組み敷きて
-
首 を搔 かんと窺 へば -
年は
二 八 の稚児 桜 -
綻 び初 めし顔 に -
鬼をも
拉 ぐ直実も -
忰 小次郎直家 と -
思ひ
比 べて気も弛 み -
同じ
年 端 の若武者を -
討って
手 柄 も何かせん -
疾 く疾く落 し申さんと -
抱 き起こして懇 ろに -
砂打はらひ
参 らする - 折しもあれやとうとうと
- 早引揚げの陣太鼓
- 磯山松にこだまして
-
勝鬨 あがる彼方 より - 土井梶原の五十余騎
-
轡 並べて馳 せ来 る -
直実胸を
躍 らせて -
あゝ天なる
哉 命 なる哉 -
如何 にもして落し申さんと -
心砕きし
甲斐 もなや -
此 の君助けまつりなば -
二 心 抱 くと疑 はれん -
御痛 はしう候へど -
御首頂戴 仕り -
後生 弔 ひ申さんと -
思ひ切ったる
一 と太刀に -
蕾 の花を散らしけり -
玉の緒
絶 えし亡骸 の -
鎧 直垂 解 き見れば -
錦の
袋 に包まれし -
青葉の
笛 ぞ差されたり -
直 実 ハッと驚きて -
さては昨夜
嚠喨 と -
調 べ妙 なる笛の音 は -
此の
公 達 にておはせしか - それとは知らで直実が
-
刃 にかけし不 覚 さよと -
せき
来 る涙とゞめ得ず -
悲 歎 にこそは暮れにけれ -
矢竹心 の武夫 も -
浮 世 の無常を感 じけん - 弓矢も太刀も物の具も
-
捨 てゝ荷 葉 の三 つ衣 -
名も
蓮生 と改 めて -
寂光 浄土 黒谷 の -
法 念坊 に閉 ぢ籠 り -
敦 盛 の後生 弔 ひし - 心の内こそ哀れなれ
- 心の内こそ哀れなれ
-
1.-4.
侍として生きる身の
移り変わりの激しさは
夢まぼろしのようなもの
むしろ夢よりなおはかない -
5.-12.
熊谷次郎直実は
一の谷の合戦で
見事手柄を立てようと
味方の軍勢出し抜いて
我が子小次郎直家と
郎党一人あわせて三人
馬を急がせ須磨の浦 -
13.-19.
時に元暦元年二月
春まだ浅い六日の夜更け
平家の陣では侍たちが
楯を寝床にぐっすり眠り
ひそまりかえって音もない
聞こえるものは一晩中
打ち寄せてくる波ばかり -
20.-30.
熊谷は馬を静かに
渚の方に進めてから
暫らく休むその時に
はるか平家の陣地から
誰が吹くのか笛の音
とてもみごとで美しい
澄んだ音色がさえわたる
月に向かって鳴く鹿か
そうでなければ渡る雁
磯の松に吹き寄せる
風の音にも響きあい
哀れを誘う音だった -
31.-37.
直実耳を傾けて
うっとりとして聞きながら
「さてさて平家の人々は
明日をも知らぬ戦場で
雅びの心を笛の音に
吹きこめるとは奥ゆかしい」と
心に深く感じ入る -
38.-47.
しばらくすると月の影
西の山に入りかけ
夜はほのぼのと明けてゆく
沖の波間の漁火も
いつしか消えて朝の風
赤旗白旗入り乱れ
源平互いにときの声
ここが勝負の瀬戸際と
両軍必死に戦って
遂に平家はうち敗れ
沖のかなたに退いた -
48.-54.
ところが無官大夫敦盛
黄緑色の鎧をつけて
連銭葦毛の馬に乗り
そばにつかえる供もなく
味方に遅れただ一人
沖に浮かんだ船を目指し
落ちのびようとしたところ -
55.-61.
直実がそれを見つけ
扇を上げて差し招き
「そこの平家の御大将
船はもうはるかかなた
逃げることはできますまい
お戻り下さい直実が
お相手します」と声かけた
-
62.-67.
弓矢を持った武士として
敵の呼ぶ声聞きながら
逃げてゆくのは恥ずかしいと
敦盛は馬を戻し
直実目がけて斬りかかる -
68.-74.
二人は激しく戦って
刀を捨ててむずと組み
波うち際にどっと落ち
上になりまた下になる
だが熊谷は剛の者
難なく敦盛組み伏せて
首を切ろうとしてみたら -
75.-84.
年は十六その顔は
咲きかけている桜のよう
鬼より強い直実も
我が子小次郎直家と
比べてしまい気も弱り
息子と同じ年頃の
若い者を討ってまで
手柄を立ててもしかたがない
逃がしてやってもよかろうと -
85.-90.
抱き起こしてうやうやしく
砂を払ったその時に
引き揚げ告げる陣太鼓
磯にとうとう鳴り響き
松の林にこだまする
勝ちどきあげて味方の武士
土肥に梶原五十余騎
馬を並べてやって来た -
91.-101.
直実は胸が鳴り
「ああこれも運命か
何とか逃がしてあげようと
心をくだいた甲斐もない
この人お助けしたならば
裏切り者と思われる
お痛わしくはありますが
首をいただきそのかわり
御冥福を祈ります」と
思い切って刀を振るう
つぼみの花は散ってしまった -
102.-105.
命の糸が切れたなきがら
直垂を脱がしてみると
錦の袋に包まれた
青葉の笛が差してある -
106.-113.
直実はっと驚いて
「さては夕べ聞こえてきた
美しい音色の笛は
この若者が吹いていたのか
そうとは知らずに直実が
刀にかけたのは残念だ」と
あふれる涙が止まらない
嘆き悲しんでいるばかり -
114.-123.
心の強い侍も
世のはかなさを感じたか
弓矢も太刀もみな捨てて
蓮のころもを身にまとい
名も蓮生と改めて
浄土を求め黒谷の
法然のもとで修行を積み
敦盛の菩提を弔った
心の内はあわれである