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浮きたつ雲の
行方 をや - 風の心に任すらん
- 今はた我も流れの身
- 定めなき世の習ひかな
- 時しも文治の初めつ方
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判官 都を遠近 の -
道
狭 くならぬ其先に -
西 国 の方 へと志し -
淀 の流れを漕ぎ下る -
時雨 の葦の浮 寝 鳥 -
夢なさましそ
舟人 よ -
世の中の人は何とも
石 清 水 -
澄み
濁 るをばしかすがに -
神ぞ知るらん
行末 の - 武運を守らせ給へやと
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高き
御 影を伏し拝み - 風に任せて行く程に
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やがて暮れ行く
入相 の - 空は一つに雲の波
- 煙の波もはるばると
- こゝぞ津の国尼が崎
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大物 の浦に着きにけり - 弁慶
御 前 にまかり出 で - 言葉を改め申すやう
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いかに我君お恐れ多き事
乍 ら -
静は正しく
御 供と見えて候が -
今の
折節 女 性 を召具し給ふこと - 似合はしからず候らへば
- 世にも痛はしく候へ共
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都へ
御 帰しあれかしと -
いと
本意 なげにぞ申しける -
判官 これをきこしめし -
げにげにそれも
道理 なり -
如何 に静我れ此度思はずも -
言 甲斐 なき者の讒 により -
落人 となりて下る所に - これまで参りし志し
- かへすがへすも神妙なり
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さり乍ら千里の波路
遥々 と -
汝を
伴 い行かんこと -
然 るべからず思ふなり - 一先づ都へ立帰り
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時節を待てとぞ
宣 ひける - 弁慶共に慰めて
- 君は唯世の聞えをば
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思召 しての事ぞかし - 御心変りとな思召しそ
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しばしが程の
御 別れ - 行末千代とぞ菊の酒
- 静にこそはすゝめけれ
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いや
兎 に角 に数ならぬ - 身には恨のなけれども
- これは船路の門出なるに
- 波風も静をとゞめ給ふかと
- 涙を流しゆうしでの
- 神かけて変らじと
- 契りし事も定めなや
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実 にや別れより -
まさりて惜き
命 かな - 君に再び逢はんとぞ思ふ
- いかに静どの
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御 心中察し申し -
我等も
落涙 仕って候 -
御歎 きはさる事なれど -
旅の船路の
首途 の和歌 -
たゞひとさしと
勧 むれば - 其時静は立上り
- 時の調子もとりあへず
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渡 口 ノ郵船風静マッテ出ヅ
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波 頭 ノ謫所 ハ日晴レテ看ユ - これに烏帽子の候
- 召され候らへ
- 立舞ふべくもあらぬ身の
- 袖うち振ふ悲しさよ
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なほ頼め
標 茅 が原のさしもぐさ - 我れ世の中にあらん限りは
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かく
尊 詠 の偽 りなくば -
やがて
御 世に出船 の -
船 子 共 はや纜 をとくとくと -
勧 め申せば判官も - 旅の宿りを出で給ふ
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静は
後 を見送りつ -
烏 帽子 直垂 脱ぎすてゝ -
涙に
咽 ぶおん別れ - 見る目もいとゞ哀れなり
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急ぎ
御 船を出 すべしと - 立ち騒ぎつゝ船子共
- えいやえいやとゆう汐に
- つれて船をぞ出だしける
- あら笑止や風が変って候
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訝 しや黒雲 俄に漲 り渡り -
あの
武庫 山 -
弓 弦 羽 が嶽 より吹き颪 す嵐に -
白波
煽 りて舳 を越え -
右手 の方 にも左手 にも - おしもかへらぬ不覚さよ
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すはや
颶 ぞ油 断 すな -
綱引
下 せ苫 巻けと -
楫 子 共必死に振舞へど -
波は
恒 沙 の如くにて -
陸 地 に着くべき様 ぞなき -
偖 も不思議や海上を見れば -
西 国 にて亡 びし平家の一門 - 雲霞の如く遠近に
- 波に浮びて出でたるぞや
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抑 も之 は桓 武 天皇九代の後胤 -
平 の知盛が幽 霊 なり - あら珍らしや如何に義経
- 思いも寄らぬ浦波の
- 知盛が沈みし有様に
- また義経をも打沈め
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奈 落 の底へ引っ立てんと -
大長刀 を振りかざし -
潮 を蹴立てゝ悪風を吹きかくれば -
眼 もくらみ心も乱れ -
前後を
忘 ずるばかりなり - 其時義経少しも騒がず
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たとひ悪霊
恨 みをなすとも - そも何事のあるべきぞと
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太刀 抜き放ち戦へば -
弁慶あなやと押
距 て -
打物業 にて叶ふまじと -
舷 に突っ立ち上がり -
珠 数 さらさらと押揉んで - 五大明王の御名にかけ
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一心こったる
祈 念 の信力 -
さしもの
悪霊 敵しかね - 次第次第に遠ざかる
- 弁慶こゝぞと力を合せ
- 押せや者共漕ぎのけよと
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渚 の方 へ寄せんとすれば -
猶
怨霊 は立ち現はれ -
遁 さじものと寄り来 るを - 追っ払ひいのりのけ
- 又引く汐にゆられゆられ
- あと白波とぞなりにける
- あと白波とぞなりにける
-
1.-4.
雲のゆくえは風のまま
人も流れに身を任す -
5.-9.
時はあたかも文治元年
都を落ちた義経は
急ぎ西国めざすため
船で淀川下りゆく -
10.-17.
向こうに見える石清水
世間が何と言おうとも
わたしの心は澄んでいる
それ御承知の八幡様
ゆく末お守り下さいませ
拝む間も進む船 -
18.-22.
やがて日も暮れ雲の波
船は川浪乗り越えて
摂津の国は尼崎
大物の浦にたどり着く -
23.-31.
弁慶言葉を改めて
「申し上げますわが君様
おともの静殿のこと
ここから先の御同伴
よろしくないと存じます
つらいことではありますが
都へ御帰し下されませ」と
言いにくそうに御進言 -
32.-43.
しかし義経聞き届け
「たしかにそれはもっともだ
静よどうか聞いてくれ
つまらぬ者の陰口で
都を落ちてきたわたし
ここまでついて来てくれた
そなたは立派な心がけ
とは言うもののこの先は
連れて行くことできぬのだ
都に戻って時を待て」 -
44.-50.
弁慶もことばを添えて
「これはあくまでわが君の
御名に傷をつけぬため
心変わりでないのです
しばらくお別れするけれど
いつか再び末永く」
酒一献を進めると -
51.-60.
「とるに足りない身のわたし
ゆめお恨みはいたしません
ただせっかくの船出の日
ひとりとどまる残念さ
決して変わりはしませんと
神に誓った二人の仲
なのに別れるこのつらさ
けれど長生きさえすれば
また会える日もありましょう」 -
61.-66.
弁慶再び静に向かい
「心中お察しいたします
この弁慶も泣けて来た
悲しいところであるけれど
殿の門出を祝うため
一つ舞ってはくれまいか」 -
67.-70.
言われて静は立ち上がり
そのまますぐに歌い出す
「風がやんだら船は出ます
行く先は波の向こうです」
-
71.-74.
「ここに烏帽子がございます
これをお付けなさいませ」
立っているのもつらいのに
舞いつつ袖を振る静 -
75.-79.
「『おすがりなさい人々よ
神がこの世にある限り』
歌の文句の通りなら
やがて良い日も来るでしょう
船を出しませ船乗りさん」 -
80.-85.
せかれて遂に義経も
旅立つ時がやってきた
静は後を見送ると
舞の衣装を脱ぎ捨てて
あとはひとりで泣くばかり -
86.-96.
「さあさあ船出」と船乗りは
えいやと船を出したはよいが
「この風向きは困ったぞ」
思う間もなく不思議にも
一天にわかにかき曇り
六甲山から吹く嵐
舳先をしのぐ高波に
船は動きのとれぬまま -
97.-101.
「嵐が来たぞ油断すな
綱をおろせや苫を巻け」
船乗りたちは必死だが
波は全くおさまらず
少しも陸に近づけぬ -
102.-105.
世には不思議なことがある
ふと海上に目をやると
壇の浦の海の底
沈んだはずの平家一門
雲霞のようにびっしりと
波に浮かんで現れた -
106.-112.
「われこそは桓武の後胤
平知盛の霊である
珍らしや義経
ここで会うとは思いも寄らず
この知盛と同様に
地獄の底に沈めてやろう」 -
113.-116.
大長刀を振りかざし
悪風おこす知盛の霊
まなこ眩んで心も乱れ
前も後ろもわからない -
117.-120.
その時義経少しも騒がず
「たかが悪霊ではないか
一体何ができよう」と
刀を抜いて立ち向かう -
121.-128.
「弓矢の通じる相手でない」と
弁慶前に立ちふさがり
数珠さらさらと揉みながら
五大明王の名を唱え
一心不乱に祈ったら
さすがの悪霊かなわぬと
次第に遠ざかってゆく -
129.-137.
「今だものども浜めがけ
力の限り船を漕げ」
なお「逃さぬ」と怨霊は
襲いかかるが弁慶は
祈り続けて追い払う
やがて引き潮悪霊の
ゆくえは誰にもわからない